毛利氏と言えば、織田信長が追放した足利義昭を匿い石山本願寺のような勢力と協力し何度も信長に煮え湯を飲ませた西国の雄と考えられています。しかし、それは一面的な見方であり、信長と毛利氏の関係は初期は良好なものでした。では、何が原因で敵対したのか?それは信長が信じがたい程に鈍感だったからです。
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利害が一致していた織田と毛利
毛利氏と信長の間で通交が始まるのは、信長が将軍足利義昭を奉じて上洛した永禄12年から13年頃の事のようで、意外にも毛利氏からの書状が切っ掛けであり、それは山陰地方を巡る情勢が関係していました。
永禄9年、毛利元就は最強の宿敵である尼子氏を滅ぼしました。しかし、尼子氏の旧臣の山中鹿之助幸盛は一族の尼子勝久を擁して尼子再興を掲げて地下活動を続け、但馬の守護、山名佑豊の協力を得ていました。
織田家は山名氏と敵対していたので、元就は永禄12年信長に対して協力して但馬に出兵してくれるように打診、信長は応じ木下秀吉を中心とする2万の軍勢を派遣して垣屋城を攻撃しています。それ以外にも信長は元は毛利氏に仕えていた外交僧、朝山日乗を使い、毛利家と縁組を考えていた事が分かっています。また、当時西国では、毛利氏包囲網と呼ばれる大友宗麟を中心にした反毛利氏勢力による毛利氏への攻撃が激しくなり、大友氏に呼応して美作の美浦氏、備前の浦上宗景が反毛利の軍事活動をしていました。
信長は、これに対抗すべく、木下助右衛門尉を大将とする2万の大軍を播磨にも出陣させていました。どうもこの頃、毛利と織田では中国地方を因幡・美作・備前より西を毛利、但馬・播磨より東を織田氏の支配地とする合意があったようです。いずれにせよ、この段階では織田と毛利の利害は一致していました。
将軍義昭を送り帰そうとした輝元
足利義昭は、元亀4年7月に信長に対して挙兵するも、逆襲されて京都を追放されます。そして義昭は8月1日には、毛利元就の次男の吉川元春に書状を送り、「頼みに出来るのは毛利氏だけなので、どうか幕府再興に協力して欲しい」と書いています。
しかし、毛利輝元は信長との協調が壊れる事を恐れて義昭と信長に対し、天下の為に相互に和睦して下さいと仲裁役に回りました。信長は毛利氏の提案を受け入れ、義昭も輝元の調停を受け入れ、織田方から羽柴秀吉と朝山日乗、毛利側から外交僧の安国寺恵瓊が出て、義昭の京都復帰の交渉がもたれますが、義昭が信長は人質を出すべしと強硬に主張して曲げないので秀吉がブチ切れてしまい
「こちらの誠意に納得できないのなら、将軍様は行方不明ですと信長に報告するので、どこへなりと消え失せなさい」と言い捨てて席を立ち交渉は決裂しました。交渉は不首尾でしたが、毛利輝元は義昭を受け入れる事に当初は難色を示していたのです。
履行されなかった但馬攻め
当初は良好だった織田と毛利の関係に綻びが出て来たのは、信長得意のなんちゃって援軍派遣でした。前述したように山陰では、永禄12年頃から尼子勝久と山中鹿之助が尼子氏再興を目指し、但馬守護の山名佑豊や佑豊の甥の因幡の山名豊国の協力を経て、天正元年の8月には、因幡鳥取城を攻め毛利方の武将武田高信が討たれる事態になっていました。
これに対し、信長は援軍を送る事を約束し、羽柴秀吉と武井夕庵に書状を送らせています。元々、但馬は密約で織田家が支配するとなっており織田家としても但馬出兵は義務でした。信長は天正元年の12月には、毛利方の安国寺恵瓊に、すでに但馬の国人は半分が織田家になびいており、来年の2月には羽柴秀吉を大将に軍勢を但馬に送ると書状を送ります。
毛利氏は吉川元春を総大将に、天正2年2月頃、因幡の山名豊国を降伏させます。これに対し信長は祝い状を書き送り、但馬への出兵は抜かりなくやります。その時には、また連絡しますと期待をもたせるような事を書いて寄こしていました。
但馬を毛利氏に奪われた信長の行動
しかし、現実には但馬に織田家の援軍はありませんでした。同じ頃、信長は上杉謙信とも共同作戦の約束をしていましたが、こちらも長島一向一揆の鎮圧が長引き援軍を裂けませんでした。なら当然、但馬にも援軍は出せないのです。織田家の援軍がないまま、毛利氏は但馬の山名佑豊に圧力を掛けてこれを降伏させます。こうして但馬は予定と違い毛利氏に属する事になりました。信長は、但馬が毛利氏に奪われた事が不満ではあったようで毛利氏に書状を出しています。
但馬については、かねて承知の通り織田家の分国とするという約束でしたが、近年交渉がなく苦々しく思っていました。しかし、出雲や伯耆と言った山陰地方の安定のため、また、敵対する尼子・山中らの牢人を退治するのに必要だったという事であれば、和睦が達成されたのは目出度い事です。最前の盟約に従い、ご連絡頂いた事に感謝申し上げます。
信長は未練たらたらながら、出兵出来ない以上は、こうなってもやむを得ないと諦めたようです。ところがこの頃、織田家は毛利氏が到底容認できない尼子勝久と山中鹿之助を柴田勝家を通じて匿っていました。その事を毛利氏に問い詰められた信長は、決して尼子勝久も山中鹿之助も支援しないと約した朱印状を送っています。
浦上宗景が破局の切っ掛け
但馬攻めの不履行と尼子・山中を匿った事でギクシャクしだした織田と毛利の関係は、山陽地方の備前・美作の境界に置いて決定的な破局に至ります。ここでの対立軸は備前天神山城の城主、浦上宗景とその支配下にあった岡山城主、宇喜多直家です。元々、浦上宗景は、毛利氏と結び尼子氏と対立していましたが、毛利氏が中国地方に勢力を拡大する段階で離反、大友氏や美作の三浦氏と「毛利氏包囲網」に加わります。
その後、義昭の和睦斡旋で元亀3年に毛利氏と浦上氏の和睦が実現しますが、ここで、尼子勝久や山中鹿之助が浦上氏に加担し、再び浦上氏は毛利と敵対。それに対し、宇喜多直家は浦上氏と決別し、毛利氏に協力しました。
浦上氏は、その後、信長に接近し備前、播磨、美作、三カ国の所領を安堵するとした朱印状を発給します。これには毛利氏は驚きます。毛利氏の敵である浦上氏を信長は受け入れ、その支配下には、尼子・山中の両名もいたからです。
やがて宇喜多直家は毛利氏の援軍を受けて、備前天神山城を攻撃、これに対し信長は天正3年4月頃、宗景と直家の和睦を画策し、協力を吉川元春に要請しています。ところが和睦仲介の手紙が届くや、毛利と直家は全力で天神山城を攻撃し陥落させました。浦上宗景は逃亡し隣国の播磨へと落ち延びます。
さて、浦上宗景が播磨に逃げると信長はどうしたのかと言うと、越前攻めに参加していた荒木村重を引き抜き播磨に急行させ、宗景が入るための城を宇喜多氏の端城を攻略させて、その城を修理して増築し宗景に与え兵糧を運び込み、村重には、浦上氏の後方支援を命じたのです。
唖然呆然、、信長は表面上、毛利氏と断交しないまま、反毛利の浦上氏を一貫して支援し、わざわざ親毛利の宇喜多氏の城を奪ってまで城主に据えたのです。これでは、いくら毛利氏と表面上仲良くしても無意味でしょう。
毛利氏と敵対していると思わない鈍感信長
ここまでの信長の対応を見て、読者の皆さんはどう思いますか?
善悪は別として、もう信長は毛利と敵対するつもりなんだと思わない人はいないでしょう。事実、毛利氏は表面上は友好関係を維持しつつ、信長の権大納言右大将就任を祝いながら、天正3年の9月には対織田開戦を真剣に協議しはじめました。
宇喜多直家に関しても信用ならない男ではあるが、いざとなれば織田家を防ぐ盾くらいにはなるだろうと評価しつつ、織田家と開戦になった時のシミュレーションとして、①合戦寺の毛利家中の統制、②出雲、伯耆、因幡の維持、宇喜多直家の繋ぎ止め等を想定し、さらには、それまで受け入れていなかった足利義昭も擁立しました。このように毛利家は、総力を挙げ東西弓箭儀(合戦)に備え始めます。
ところが、毛利氏を散々に疑心暗鬼させた信長は、この時点でも毛利氏が裏切るとは思いもしなかったようです。毛利氏が吉田郡山城で「東西弓箭の儀」を談合していた、まさにその頃、信長はそれまで没交渉だった関東・陸奥の大名に書状を出しているのですが、その中で毛利氏との関係に触れ、中国地方は俺の庭で、毛利と小早川は子分みたいなものと自慢しているのです。関係が遠い東北と陸奥の大名に対し、若干のハッタリや吹かしはあるでしょうが、もし、毛利氏が敵対すると思えば、こんな後で大恥をかく文面を残さないでしょう。
天正4年(1576年)5月23日、信長は毛利氏が海路から本願寺に兵糧を支援しているという報告を受け、もし、それが本当ならば、当方の船を出して撃退するようにと発令しました。この期に及んで、もし、という言葉を使う所に、信長の警戒心の無さが出ています。やはり、信長は自分が散々に毛利氏を裏切るような事をしながら、それに気づかない超鈍感ぶりを示していたのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
織田信長は、国人領主の心の動きに鈍感でした。
小さな領地を必死で守る国人領主がちょっとした国境いの変化にも過敏に応じる事を理解できず、同盟相手さえ攻めないならセーフだろと思っている節があります。だから悪びれず、浦上宗景に居城を与える名目で宇喜多直家の端城を落としたり、匿わないと約束しながら尼子勝久と山中鹿之助を堂々と匿い、浦上氏の部下として配置したり出来るのでしょう。
「あれは小者同士の喧嘩であって、ウチとあんたは友好関係」信長は勝手にそう思いこみ、毛利氏もそうだと思い込んでいたんですね。
参考:織田信長不器用すぎた天下人 河出書房新社
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