NHK大河ドラマ、西郷どん、現在舞台は奄美大島に移行しています。ここでの3年間は、西郷隆盛の生涯に大きな影響を与えるのですが、奄美大島から薩摩に帰った後、西郷どんが奄美大島を貿易拠点として、発展させようという構想があった事はあまり知られていません。
今回は、貧しい奄美大島の人々を経済的に豊かにしたいと願ったかも知れない幻の西郷どんの貿易構想を紹介します。
この記事の目次
西郷どんは経済に疎いとは大きな誤解
社会一般には、西郷隆盛は道義と仁愛の人であり経済には疎い人というイメージが大半ではないかと思います。研究者の中にも、西郷は農本主義者で資本主義を理解していないとか商人を毛嫌いしているとか、そんな主張をしている人がいます。しかし、それは、大きな誤解というものです。それというのも、西郷どんはそのキャリアの最初を郡方書役助という道路や堤防を修理したり、新しく造るという仕事から始めます。もちろん、それには見積書を出す必要があり算盤の技量も必要でした。
西郷どんの息子の西郷午次郎の回想では、西郷どんは、算盤に巧みで14歳から15歳頃には大変な評判だったと言うのです。計算に巧みな人が経済に疎いという事があるとは考えにくいでしょう。
商人が大嫌いというのは事実ではない
また、西郷どんが、大蔵卿の井上馨、五代友厚、市来四郎のような経済に精通した人々を毛嫌いしていたという逸話から、西郷は経済に理解がなく商人を嫌ったのだとする話もあります。
しかし、西郷隆盛が嫌ったのは無節操な儲け主義でした。井上馨を「三井の番頭どん」と蔑んだのは、その癒着を嫌ったのです。つまり暴利をむさぼり、政官で結託するような汚職役人が嫌いだっただけであり商人、ないし商取引そのものを理解しなかったわけではないのです。
西郷どんが私淑した島津斉彬は稀代の経済家
そもそも、農本主義で金儲けが嫌いで農業だけでやっていくべきと西郷どんが考えていたなら、どうして島津斉彬に登用されたのかという疑問があります。もし、西郷隆盛がゴリゴリの農本主義者なら日本は開国して商業を盛んにするという斉彬の考えとは、正反対になってしまう筈です。
西郷どんは斉彬の命令だからで、唯々諾々と従うような人ではなく苛烈な反論を試みたりして、斉彬に窘められています。それは、島津久光の上洛計画に対して意見を求められ、遠慮なく「ジゴロウ(田舎者)に何が出来るものか」と発言して、久光の心証を悪くした点からも分かる事です。
斉彬は集成館事業を通して製造した大砲や鉄砲を日本各地の大名や太平天国の乱の最中の清に売りさばこうとする構想もあり、儲けるという事に躊躇がない人ですから、その斉彬に認められたという事は西郷どんに経済への理解があったか素質があったと考えるべきではないでしょうか?
おいは商売をやりたい!大久保への手紙
西郷どんが商売を嫌っていなかった、その証拠は盟友の大久保利通への書簡にも現れています。1864年9月16日、大久保への手紙で西郷隆盛は、もう少し暇が出来たらと前置きした上で
「私面を突き出し、商法をやりたきものと相考え申し候」と書き人任せではなく自分が前面に立ってビジネスをやりたいとの希望を述べます。それも、「のるか反るかの大商売をやりたい」と書いているのです。
どうやら、奄美大島、徳之島、沖永良部への足掛け5年の歳月を西郷どんは、漫然と過ごしていたわけではなく、これらの島々の特産である黒砂糖の販売の仕組みなどを実際に見る事により、俺ならこうやるというビジネス構想がむくむくと湧いてきたようなのです。この書簡を見る限り、西郷どんは農本主義者どころか、積極的に商売をやりたいという商人そのものに見えます。
長崎と横浜を開港し、雄藩の大名と自由貿易を構想
では、西郷隆盛のビジネスプランとは、どんなものでしょうか?
それは、大久保への手紙によると雄藩の大名で協力して、長崎と横浜の二港を開いて海外と貿易をするのがベスト、その許可が得られないなら、仕方がないので雄藩それぞれで、自藩の港を開いて銘々で富国強兵策を取るしかないとしています。
そして具体的な富国強兵の方策としては、
「蒸気船を使用して、砂糖や中国漢方薬・煙草・鰹節様の物産を
海外で売りさばき、初年度は儲けはあまり考えずに信用を得て、
その資金で銅(大砲や銃弾の原料)または生糸等の品を輸入しては
いかがでしょうか?」としています。
1864年と言えば、攘夷の嵐が吹き荒れた時期で積極的に海外と貿易するなど内心では思っても、とても口には出来ませんでした。しかし、西郷どんがそのように考えていたという事は、商売嫌いの経済音痴という西郷隆盛のイメージを覆すには、十分な証拠ではないでしょうか?
暴利を貪ってはいけない、西郷どんの経済倫理
西郷どんが蒸気船で商いたいとする砂糖や漢方薬、煙草、鰹節は、奄美大島や琉球、鹿児島の物産です。それらを世界相手に手広く扱い、富国強兵を実現して倒幕資金を得るのが西郷隆盛の構想でした。
しかし、同時に西郷の構想の中の初年度は儲けはあまり考えないという所にも注目すべきです。これは、対外的にも暴利を得るべからずだけでなく、国内的にも過酷な搾取をしないという事にも繋がります。それは、西郷どんが奄美大島で目撃した砂糖地獄、あまりにも酷い搾取についての戒めだと言えるでしょう。西郷は琉球、奄美、鹿児島を貿易の拠点にする事で、そこに暮らしている貧しい人々にも貿易の恩恵が落ちて豊かになるこの事を考えて、初年度は儲けは余り考えないという一文を入れたのではないでしょうか?
奄美大島の人々を豊かにしたい西郷どんの恩返し
薩摩藩のあまりにも酷い搾取に憤りを隠さなかった西郷どんですがそれだけでは現実は何も変化しません。島で大量に取れる砂糖を島人がなめるだけで処罰される理不尽それを無くして貿易の恩恵が奄美の人々にも行きわたるように、自分が貿易を主導して島の人々を経済的に豊かにする。「そいが、おいを受け入れてくれた島人への恩返しじゃっど」西郷どんは、そのように考え、沖永良部から鹿児島に帰還した当初からのるか反るかの貿易構想を考えたのではないかと思うのです。
「そんな弱者に都合がよい立派な人間などいるか?
西郷の頭には、ただ富国強兵だけがあり奄美大島や沖永良部の人々への
思いなどは、多忙の中で遠くに追いやられたのではないか?」
そうかも知れません、しかし、このような積極的な貿易構想が、沖永良部から帰還して、10か月の間にたて続けに出されている点に西郷どんの「なんとか島の人々を豊かにしてやりたい」という焦りにも似た感情を掬い取るのは、そこまで無理な事ではないと思います。
西郷は、一度こうと思い込むと呆れる程に信じやすい一面もあり、紀州出身で明治政府に先んじて、廃藩置県と軍制改革を断行した津田出を政府の首相に担ごうと熱心に運動するも、大勢の反対を受けて失敗、弟の西郷従道を津田に遣わして謝罪した逸話があります。明治に入ってでさえそうなのですから、幕末の頃の西郷どんが、理念に先走り、何とか島の人々の貧しさを救おうと必死に考えたのは有り得た事ではないでしょうか?
その人間的な魅力が重宝され経済から遠ざかる西郷どん
しかし、その後、西郷どんが経済に関わる事はありませんでした。当時の薩摩藩が西郷に求めたのは、巨大な人間的魅力で藩論を統一し倒幕へと引っ張っていくエネルギーの牽引者の役割だったからです。明治維新後の西郷どんは、陸軍大将、参議として大勢の部下を抱え、なおの事、商売に自ら乗り出すには難しくなり、ボスとして、現場に必要な援助とアドバイスを行う存在になります。
西郷について、経済音痴だという評価を下している伊藤博文や、大隈重信は官軍の総大将としての西郷しか見ていません。それ以前に海外貿易に意欲を示し、細々とした計算にも長けた経済官僚としての西郷隆盛も、もちろん知らないのです。確かに実際に西郷どんが貿易に関わり、五代友厚や市来四郎のような業績を上げたかどうかは分かりません。ですが、西郷隆盛が資本主義に理解がない、経済に疎い朴念仁だったとは必ずしも言えないという事は十分証明できると思います。
幕末ライターkawausoの独り言
本当は経済に暗くなかった西郷どんについて解説しました。大河ドラマでは、ここまで突っ込んで描く事はないでしょうが、西郷どんが、貿易を通じて奄美大島の人々の暮らしを豊かにし、貧しさを抜け出させようと考えていたかも知れないその事を想像すると、ドラマがより楽しく見れるのではないでしょうか?
▼こちらもどうぞ