孔子は理想の主君を常に追い求めていました。彼はいつか魯を建国した周公旦のような聖人に仕え、理想の君主のもとで周王朝のような理想の国家を築きたいと考えていたのです。そんな孔子に君主たる器があると太鼓判を押された弟子がありました。彼の名は仲弓です。
孔子もベタ褒め
孔子が両手放しで褒めちぎった人物と言えば顔回が有名ですが、仲弓だって負けていません。
仲弓は出自があまりよくありませんでしたが、そのことについて孔子は「まだら牛の子でも、赤い毛並みが揃っていてその上角まで生えていたら、山や川の神々もこぞってその牛を求めるだろう」と言って仲弓を励ましました。(『論語』雍也篇)
仲弓の人格が大変優れているため、たとえその出自が悪くても必ず見出されて大抜擢されるはずだと孔子は信じていたのですね。実際に仲弓は魯の大夫・季氏に抜擢されます。仲弓は政治では自分に厳しく人に寛大であろうとし、徳によって人々を治めようと努めました。
孔子、仲弓をディスった人に猛反論
そんな真面目な仲弓は、どうやらおべっかをつかうのが上手ではなかった模様。それが不器用に見えたのでしょう、ある人が孔子に次のように話しました。
「仲弓は人を思いやる仁の心を持っているけれど、どうにも弁が立たないね。気の利いたことを少しでも言えたらいいのにね。」
これに対し、孔子は猛反論!
「どうしておべんちゃらが言える必要があろうか?人と応対するのに耳ざわりのいい言葉ばかり言っているような者は、よく人から憎まれるものだ。仲弓が真に仁を心得ているかどうかは知らないが、仲弓がおべんちゃらを言える必要はない!」(『論語』公冶長篇)
孔子は自分の愛する弟子がディスられて頭に血がのぼったのでしょうか?
「おべんちゃらなんて必要ない!」と2度も言っています。孔子は「巧言令色鮮し仁」と言っているような人ですから、そもそもおべっかつかいに否定的。それなのに、「お前のとこの弟子、最低限のおべっかもつかえねぇのな」と言われ、自分が馬鹿にされたような気もしてなおのこと腹が立ったのでしょうね。
臆することなく孔子と言葉を交わし合う
おべっかもつかえないと人からディスられていた仲弓ですが、孔子と楽しそうに言葉を交わす様子が『論語』の中にもチラホラ見受けられます。仲弓は子桑伯子という人物について孔子はどのように思っているのかを尋ねます。
孔子はその人物について、「いいんじゃない?細かいことに気をとられず、ゆとりがあって好感が持てるよ」と答えます。しかし、仲弓は孔子のこの言葉に対して不満に思ったらしく、次のように反論。
「慎み深くゆとりをもって政治を行い、それによって人民に臨むのならば大いに結構ですね。しかし、おおざっぱに構えておおざっぱに政を行っているのでは、あまりにもゆとりがありすぎるというものではありませんか?」
この仲弓のまくしたてるような弾丸トークに圧倒されたらしく、孔子も「仲弓が正しい」と答えています。(『論語』雍也篇)師の言葉であっても間違っていると思えば臆することなく反論する仲弓の姿勢からは、その実直な性格がにじみ出ているように感じられますね。
また、仲弓は「仁」とは何たるかについて孔子に問うています。孔子はこれに対し、「仁」について次のように答えています。
「家の外では大切な客に応対するように恭しく他人と接し、人の上に立って人民を使うときには大切な祭に仕えるように身を慎み、自分が嫌なことを人にしむけないように。そうすれば国のトップに立っていても怨まれることはなく、家にいても怨まれることはない。」
つまり、万民に思いやりを持って接しなさいと言っているのですね。仲弓は「私は愚か者ですが、今の先生の言葉を実行していきたいと思います!」と殊勝に答えています。(『論語』)
この仲弓が問うた「仁」は、私たちがなんとなく「フォトジェニック」だの「コミット」だのというカタカナ語を意味を知ってか知らずか連発して理解している気になっているように、当時の孔子の弟子たちにとってもよくわからないけれど理解している気になっているが故にわざわざ孔子に尋ねようと思わなかった概念なのかもしれません
それをわざわざ孔子に直接問うたのだとすれば、仲弓は真に孔子の言う「仁」を理解しようとしたという点で学問に対し誠実な人だったと考えることもできるでしょう。また、もしも仲弓が孔子に「仁」を尋ねなかったら、後世の人々は孔子の考える「仁」を理解できていなかったかもしれません。
三国志ライターchopsticksの独り言
仲弓は季氏に仕えた際にとても張り切っていましたが、季氏のもとではその理想を叶えることができないと悟って絶望し、わずか3か月で職を辞しています。根性なしと思う人もいるかもしれませんが、信念を曲げないための英断だったと捉えることもできませんか?
▼こちらもどうぞ