幕末の志士に大きな思想的影響を与えた吉田松陰の最後の書。それが「留魂録」です。吉田松陰はよく知られた幕末の人物ですが、最後の著書である「留魂録」についてはあまり知られていないのではないでしょうか。今回は、松陰の死後、多くの志士に影響を与えた「留魂録」について紹介をしていきます。
この記事の目次
吉田松陰とはどんな人?
吉田松陰は、長州藩士の山鹿流軍学師範でした。彼は11歳で藩主に講義を行うほどの天才でしたが、その影には、師となった玉木文之進の凄まじい教育があったといわれています。13歳では対西洋艦隊撃滅作戦の演習を指揮しました。吉田松陰は幼きころから敵は「西洋」であるという認識の時代の中で軍学者として育っていったのです。常に「夷敵・西洋」から日本を日本を守るのかということを考えていたのかもしれません。
吉田松陰は行動の人です。優秀な人物にはどんどん教えを請いに行きます。江戸に遊学した際には、佐久間象山の弟子になっています。変人の佐久間象山をして「狂っている」といわしめた情熱を秘めた自分でした。
吉田松陰は学ぶ中で、自分の学んできた山鹿流軍学では西洋諸国に勝利できないことを悟ります。では、どうやって長州を、日本を守るのか?
吉田松陰はそれを行動を持って示しました。
ペリー来航のときには「敵を知らねば勝てない」ということで、長崎でプチャーチンのロシア軍艦に乗艦しようとしますが、すでにプチャーチンは長崎を出航していました。しかし、吉田松陰はめげません。今度は、浦賀に停泊中のペリー艦隊に、漁船を盗んで接近して、密航を願い出るのです。当然、アメリカ側は相手にしません。吉田松陰はそうすると、奉行所に自首し、投獄されてしまします。
そして、出獄すると長州にで幽閉されることになりますが、そのまま吉田松陰は、叔父の松下村塾を継ぎます。吉田松陰は身分を問わず塾生を集め師と弟子が議論をする教育を行い、多くの志士に思想的な影響を与えていきます。
そして、吉田松陰は幕府の外交政策が日本の安全保障を脅かすと判断しました。彼は長州藩に対しなんども討幕を主張します。それは、日本を西洋から守るために必要だと彼は考えたのです。しかし、彼吉田松陰は安政の大獄で、強固な攘夷論者であった梅田雲浜派捕縛されると、萩で彼に会ったということで、巻き添えのような形で捕縛されてしまいます。吉田松陰は、評定所で聞かれてもいないにもかかわらず、国家の安全保障論を語りました。その中で、老中襲撃計画も口にするのです。結果、吉田松陰は斬首刑となり30歳の生涯を閉じました。
吉田松陰の留魂録はいつ書かれたの?
吉田松陰の「留魂録」は、安政の大獄で捕まり、書籍の直前に獄中で書かれたものです。江戸幕末期の牢獄の環境は凄まじいものであり、今のような人権など微塵もない家畜以下のような扱いを受ける場所です。そのような中で、吉田松陰は自分の書いた「留魂録」が無事に弟子たちの手に渡るように2通の書を作成しました。松陰の処刑後に1通は無事に松下村塾の塾生である飯田正伯の手に渡ったのです。しかし、もう1通の行方は今もって分かっていません。
留魂録は誰のために書かれたの?
吉田松陰の処刑直前に獄中で書いた「留魂録」は、弟子たちのためにかかれたものです。無事弟子にわたるようにという用心から2通書かれました。吉田松陰の松下村塾の弟子たちに対する遺言であり、この「留魂録」」とういう書の言葉が強い力を持って、松陰の弟子たちを動かし、激動の幕末から明治維新へと動く時代の原動力のひとつにもなったのです。
【留魂録内容】自然に四季があるように人生にも四季あり
吉田松陰の残した「留魂録」で最も有名な言葉を記しているのは、「第8節」でしょう。そこには、30歳で死んでいく自分は何もなしていないと言う悔恨を、四季に花咲き実をつける農業の収穫に例えて語っています。吉田松陰は花も咲かせず、実もつけないことに似ていると書きます。しかし、その考えは違うのではないかと、一転否定を展開していくのです。
吉田松陰は人の一生にも自然にも四季はあるが、そのありようは自然の中の農業が営まれるようなものではないと書きます。人はいつ死のうと、それにふさわしい春夏秋冬の四季があり、何歳で生涯を終えようが花が咲き、実をつけているはずだと書きます。ただ、自分がそれを知ることはできないだけであると書くのです。死を迎えた年が収穫の年でであり、そのときに恥じぬ生き方をせよと、弟子たちに伝えました。
【留魂録内容】奉行の罪状捏造に憤る松陰
吉田松陰は「留魂録」では、吉田松陰の斬首の直接の原因となった、老中・間部詮勝要撃事件についても書いています。「留魂録」では、まず老中・間部を待ち伏せし、まずは諌めることを目的としていたこと。もし、それを受けれない場合は、刺し違えて死ぬ。そして妨害する護衛のものがいれば殺すつもりであったというのは、奉行所の捏造だと書いています。
「留魂録」には、あくまでも、命を賭して老中を説得することを目的としていたのであり、刺し違えるとか、護衛を切り殺すなどは考えていなかったと書いています。吉田松陰は幕府の姦計によって死ぬのだと「留魂録」に記します。であるからこそ、吉田松陰は、天の神は真実をしっていると書きます。そして、自分の死を惜しむことなどないと「留魂録」書いているのです。
留魂録が弟子達に与えた影響
吉田松陰は幕府によって斬首にされました。そしてその直前に「留魂録」を書き、2通のうち1通が弟子の手に渡ったのです。「留魂録」の弟子たちへの影響は大きかったでしょう。まず、幕府による刑死により吉田松陰は志士たちによって殉教者のように解釈されます。
その上に「留魂録」を過酷な牢の中で書き記していたという事実です。自分に死が迫る中、弟子たちに残した吉田松陰の「留魂録」に記された言葉は、松下村塾の弟子たちに一歩も引かない決意を与えることになります。自分の師が示した生き様と死に様、そして残した「留魂録」は、志士たちの行動の原動力となりました。そして、師の無念の思いを晴らすべく、決意を固めていく原動力の「留魂録」となったのです。
幕末ライター夜食の独り言
吉田松陰は、行動を追いかけると中々エキセントリックな感じがします。自分でも自分を「狂っている」証していたくらいです。この「狂気」は常識の枠に収まらないと言う意味での「狂気」です。そして、信念を持ち一歩も引かないという決意の「狂気」でもあったのでしょう。「留魂録」は吉田松陰の決意と無念の思いが書き記されたものであり、吉田松陰の育てた志士たちに大きな影響を与えました。
「留魂録」は歴史を動かす原動力になっていたかもしれない本であったというのは過剰に過ぎる賞賛でしょうか。
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