『三国志』にドはまりし、陳寿が著した正史『三国志』の原文を読んで勉強しよう!と意気込んでみたら、何とも読みにくい上によくわからない表現が多くて四苦八苦…。そんなあなたの目に飛び込んでくるのが、裴松之が付した「注」。
この「注」を読めば、『三国志』の本文の意味がわかるだけではなく、『三国志』が何倍も楽しめちゃいますよ。そんな「注」は、現代の私たちが中国古典を理解するために欠かせない存在。今回はその「注」について紹介したいと思います。
最初の注は「伝記」
注の歴史は今から2千年以上も前の春秋戦国時代にまでさかのぼります。春秋戦国時代といえば、周王朝の力が衰えて諸侯たちが王を名乗り、小国が乱立して乱れに乱れた動乱の時代です。
そんな乱世を憂い、各地を旅してその考えを説いて回った思想家がありました。その人物こそが孔子です。
彼の言葉は多くの人の心を震わせ、その言葉は孔子の没後も弟子たちによって脈々と受け継がれていったのでした。しかし、時代が下るにつれ、孔子が書き残した言葉も、孔子の弟子が語った言葉も何だか意味がわからなくなっていってしまいました。言葉が古くなってしまったり語り継がれていくうちに言葉が誤って伝わってしまったりという事態が起きてしまったのです。
そのような中、孔子の言葉の正しい解釈をすべく立ち上がった者たちがありました。彼らは孔子やその直弟子たちの言葉を丁寧に研究し、その言葉の真理を研究し、孔子の教えが多くの人々に理解されるように注釈をつけたのです。その注釈は「伝」や「記」と呼ばれています。
それらの中でも有名なのが、秦の伏生が『書経』に注釈を付した『尚書大伝』、韓の毛亨・毛萇による『詩経』注である『毛詩』、漢の戴聖が著した『礼記』と略される『小戴礼記』、戴聖の叔父・戴徳が著した『大戴礼記』、そして『春秋』三伝と称される春秋時代の左丘明による『春秋左氏伝』、戦国時代の公羊高による『春秋公羊伝』、同じく戦国時代の穀梁赤による『春秋穀梁伝』でしょう。ちなみに孔子によって『易経』に直々に伝が付された『易伝』も「伝記」に分類されるそうです。
それでも意味がわからなくなってきた結果…
「伝記」が付されてわかりやすくなった書物も、時代が下っていくにつれてその内容が人々に理解されにくくなっていってしまいました。そういうわけで、今度は伝記にさらに注が付けられます。これが、私たちが一般的に注釈と呼んでいるものです。
この注は経書だけではなく、『三国志』のような歴史書や諸子百家、果ては小説や、文集、詩の一篇一篇にまで付されるようになっていきます。その内容は、「~は~という意味である」といった具合にその言葉の意味を説明するものだったり、ある言葉の出典を示したり、その文章の内容をどう解釈すべきかを記したりと、その注釈者によって様々です。
経書は特に多くの人によって注釈書が編まれ、その中で正しい注釈書はどれかという議論が戦わされるほど。知識人はこぞって筆を振るい、注釈書の執筆に明け暮れたのでした。
ついに注の注が編まれることに
次から次へと生み出されていった経書の注釈書。ところが、その注釈書が増えすぎてどれを信じていいかもわからず、また、時代がますます下っていったことにより、その注釈書の解読が難しくなっていってしまいます。また、科挙という官吏登用試験の科目を経書にするということで、経書の解釈を一つに統一する必要性が生じたのです。この問題を解決すべく、唐の孔穎達をはじめとする儒学者たちによって今度は注の注ともいえる「疏」が付されるようになったのです。
その疏は唐代から北宋にかけて編まれたものが多く、その中でも特に権威のあるものは、これまた権威ある注とともにまとめられ、唐代には孔穎達による『五経正義』が成立し、南宋末にはいよいよ『十三経注疏』が大成したのでした。この『十三経注疏』こそが、儒学を学ぶための決定版。現代でも、儒学を学ぶ学生によって読まれているのです。
注のバトルはまだまだ続く…
漢代頃に編まれた注と唐代頃に編まれた疏を中心として学ばれた儒教ですが、その流れに異を唱える者が現れ始めます。その代表ともいえる存在が、朱子学の祖とされる朱熹です。彼は、漢唐の学者たちが表面的な文字の解釈にとらわれるあまり儒教の本質を見失っていることに疑問を抱き、文字に現れない孔子の教えをくみ取ろうと経典に新しい注を付したのです。ところがその後、清代に現れた考証学者たちによって朱熹のやり方は否定され、漢唐の学者たちの文字を追う解釈が尊ばれるようになりました。
三国志ライターchopsticksの独り言
その後は欧州の列強による中国侵略や世界大戦によって経書の解釈云々言っている場合ではなくなってしまった中国でしたが、経書の解釈に関する議論はまだまだ繰り広げられていそうですね…。
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