
三国志を現在まで知ることができたのは正史「三国志」が書かれていたからです。この正史三国志を描いた筆者が世に名高い陳寿です。彼は蜀の末期に仕えた人物ですが、ある事が原因で、親不孝者というレッテルを貼られてしまいます。親不孝者というレッテルのせいで蜀滅亡後何年も就職できず、苦しい日々を送ることになるのです。この苦しい日々を乗り越えて、正史三国志を書いた陳寿(ちんじゅ)を紹介していきます。
この記事の目次
- 学問好きの青年
- 蜀に仕える
- 媚ず引かず、己を貫く
- 服喪期間中にやってはいけないこと
- 当時の習慣を打ち破ったせいで…
- 服喪期間中に大事件が発生
- 蜀の滅亡
- 国と仕事を失い、親不孝者のレッテルを貼られる
- 晋の時代になっても仕事が見つからない
- 晋の文豪・張華に気に入られる
- 孔明好きの司馬炎に孔明の実績を書いた本を見せる
- 後世に残る名著「三国志」を執筆
- 自分の実力不足を痛感し、執筆途中の本を破り捨てる
- 恩人・張華も彼を褒める
- 【三国志執筆事件】丁儀・丁翼事件
- 孔明のせいで父親が罰を受ける
- 【三国志執筆事件】馬謖が原因で孔明批判を行う!?
- 【三国志執筆事件】孔明の息子・諸葛瞻も批判
- 政争に巻き込まれ、地方に左遷される
- 最大の悪評が待ち受ける
- 親不孝者のレッテルが再び貼られる
- 雌伏の時が訪れるも…数年で名誉回復
- 不運続きの史家の人生が幕を閉じる
- 三国志が不朽の名作となる
- 三国志ライター黒田廉の独り言
学問好きの青年
陳寿は益州の巴西(はせい)で生まれます。彼が生まれた年、三国志で一番有名な蜀の名宰相である諸葛孔明(しょかつこうめい)が五丈原で亡くなります。孔明と入れ替わりで生まれてくるなんて、なんか運命を感じますね。さて彼は青年の時から学問が好きで勉強に励みます。独自で勉学を学んでいきますが、限界を感じたのか蜀の譙周(しょうしゅう)に弟子入りをします。陳寿の先生である譙周は色々な経典から預言書まで幅広く学問を修めた人物で、蜀の宮廷の中にある図書館役員の職に就いておりました。そんな彼に弟子入りした陳寿は、彼のもとで様々な学問を学んでいきます。
蜀に仕える
陳寿は譙周の元で学問を修めた後、蜀の宮廷に就職。彼は師匠である譙周と同じ宮廷の図書役員の職に就きます。陳寿が就職したときの蜀は危機的な状況にありました。
蜀の皇帝である劉禅を厳しく教育していた名臣である董允(とういん)がなくなると、宦官である黄晧(こうこう)が劉禅のお気に入りとなり権力を握り、好き放題やり始めます。
媚ず引かず、己を貫く
黄晧は権力を握ると姜維(きょうい)や諸葛瞻(しょかつせん)などの将軍や大臣らを上回る勢いを持っており、彼らは意見を言うことができませんでした。そんな中、若い陳寿は黄晧の横暴が許すことができず度々反発します。そのため陳寿は黄晧から恨まれることになり幾度も左遷されたり、降格されることになります。こうした中、陳寿の父親が病で亡くなります。
服喪期間中にやってはいけないこと
当時の中国は非常に親孝行を重視する文化を形成しておりました。では実際に喪に服している間にやってはいけない事とはいったい何なのでしょう。
服喪期間中は、肉を食べたり、酒を飲んだり、宴会などは行えません。また自分が病にかかっても一切薬を飲んではいけないのです。ほかにも様々ありますが、こういったことをしたりしてはいけません。もしこのような行為をしている事がバレたら大変なことになります。まず親孝行ができない人は村や町の人々から軽蔑の目で見られるだけでなく、就職するのも難しくなります。このような軽蔑を受け、社会的地位が低下することは生活ができない事になり、生きていくうえで非常に厳しい状態になります。そのため、喪服期間中はみなおとなしく家に閉じこもっています。しかし陳寿は違いました。
当時の習慣を打ち破ったせいで…
陳寿は実家に帰って喪に服します。彼は家でおとなしくしておりましたが、病にかかってしまいます。そのため彼は服喪期間中であるにも関わらず、召使いに薬を作らせて服用しておりました。さらに彼は運が悪いことに村の人に見られてしまいます。そのため彼は村の人々から軽蔑的な目で見られてしまいます。
服喪期間中に大事件が発生
陳寿は当時の習慣を無視してしまったため、村の人々から軽蔑されることになります。しかし陳寿は軽蔑の目で見られながらもなんとか服喪期間を終えます。彼が喪に服している間に大事件が起きます。それは国が滅んでいたのです。
蜀の滅亡
蜀は彼が喪に服している間に魏の侵攻を受けておりました。姜維率いる蜀の軍勢は剣閣(けんかく)で魏軍を防いでおりましたが、魏の別動隊が蜀奥地に侵攻し、成都城に接近。劉禅は群臣を集め、今後の方針を進言させます。陳寿の師匠である譙周は色々な意見が飛び交う中、劉禅の前に進み出て進言を行います。譙周は劉禅に「魏に降伏しましょう」と提案します。劉禅はこの進言を受け入れ、魏の別動隊の大将である鄧艾(とうがい)に降伏。こうして蜀は滅亡します。そして陳寿は国と共に職も亡くなってしまいました。
国と仕事を失い、親不孝者のレッテルを貼られる
陳寿(ちんじゅ)は蜀が滅んだことで故郷を失い、仕事を失ってしまいます。そのため彼は仕事を探しますが、誰も雇ってくれませんでした。なぜなら服喪期間中にルール違反を侵し、親不孝者と軽蔑の目で見られていた事が村の外にも広がったことで、誰も相手にしてくれませんでした。もちろん魏の領土となった益州で官吏になるのはほとんど絶望的でした。
晋の時代になっても仕事が見つからない
魏の皇帝が廃位に追い込まれ、晋の初代皇帝に司馬炎(しばえん)が就任。陳寿は新たな国が誕生した事で官に仕えることができるのではないかと、期待を膨らませます。だが、彼の期待は無残にも打ち砕かれ、晋の時代になっても彼は官に仕えることはできませんでした。しかしそんな陳寿の元に救世主が現れます。
晋の文豪・張華に気に入られる
張華(ちょうか)は晋の高官でありながら文章が巧みで、当時の人々から文学界の偉人として見られておりました。そんな彼が文官から「益州に陳寿という文章が巧みな人がいるんですけども、彼、親不孝者なんですよ。」と知らされます。彼は益州にいる役人に命じて、陳寿のことを調べます。すると確かに服喪期間中に薬を飲んで、近隣から親不孝者のレッテルが張られていることが判明。しかし薬を飲んだぐらいでこんなに批判する必要はないのではないかと考えます。そして彼は陳寿を呼び、彼が作った書類や文章を見せてもらうと、文章力がある事が分かります。張華は彼の才能が世に埋もれたままではもったいないと感じ、彼を官吏に推挙します。陳寿は張華のおかげで再び官吏に就き、長く苦しい時代に終止符を打つことができました。
孔明好きの司馬炎に孔明の実績を書いた本を見せる
陳寿は張華のおかげで、官吏になることができました。彼は一生懸命仕事に励み、バシバシ仕事をこなしていきます。彼は仕事の傍ら孔明の実績を連ねた本を執筆。張華は陳寿が書いた孔明の本を読み、大いにこの本を褒めます。そして張華は陳寿に「この本を陛下に献上してはどうか。」と提案します。陳寿は自分を推挙してくれた恩人の願いを聞き入れ、司馬炎にこの書物を献上します。司馬炎は陳寿から献上された本を読むと彼を呼びつけ、著作郎(ちょさくろう)任命。こうして彼の文才が皇帝に認められた事がきっかけでトントン拍子に出世していきます。その後陳寿は官吏を登用するときの選考官である「中正」に昇進します。
後世に残る名著「三国志」を執筆
陳寿は選考官に昇進した時、当時から現在でも多くの人に読まれた名著「三国志」を執筆。彼が作り上げたときはまだ三国志ではなく独立した三つの本でした。その三つとは「魏書」・「蜀書」・「呉書」です。この三つの書籍は晋の群臣から非常に高い評価を得ました。またこの本を読んだ人達は作者である陳寿を見直し、「歴史書として内容が優れており、歴史家として十分な内容だ」と褒めます。
自分の実力不足を痛感し、執筆途中の本を破り捨てる
晋の文官で夏侯湛(かこうたん)という人は、陳寿が三国志を世に送り出した同時代の人ですが、彼も「魏書」制作しておりました。しかし陳寿の「魏書」読み、彼の文章力に驚きます。そして自分が書いていた「魏書」を破り捨てたといわれております。
恩人・張華も彼を褒める
張華も陳寿の三国志を熟読し、彼を褒めたたえます。そして彼は陳寿に「君は歴史家としての才能も備わっているんだね。では次は晋の歴史書を書いてもらわなくてはね。」と晋の時代の歴史書を書くことになるかもしれないことをほのめかします。こうして色々なところで彼のいい噂が飛び交います。しかし彼の悪事がバレてしまい再び悪評が舞い始めることになります。
【三国志執筆事件】丁儀・丁翼事件
陳寿は正史三国志の「魏書」を書く際に、魏の功臣の子孫や戦場跡を巡って、資料集めをしながら、「魏書」を執筆しておりました。魏の曹操の三男の曹植(そうしょく)には多数の側近がおりましたが、その中にであった丁儀(ていぎ)・丁翼(ていよく)という兄弟が魏におりました。陳寿はこの二人の列伝を立てようと彼らの息子達を取材します。このとき陳寿は公平性をもって記さなければならない史家として、あるまじき発言をします。陳寿は息子達に「米を千石くれたら、丁儀・丁翼の兄弟の列伝を作ってのせてやるよ」と交渉を始めます。丁儀・丁翼の息子達は陳寿の発言に憤慨し、「米を千石払うくらいなら、書かなくていい。」と陳寿の要求をきっぱりと撥ねつけます。この事が公になり、民衆や晋の群臣は「せっかく歴史家として立派な文章を書いたのに、あのように自分の利益しか考えていないとはな」と悪口がささやかれます。しかし彼は三国志の執筆において公平を欠く事件いくつか起こしておりました。
孔明のせいで父親が罰を受ける
陳寿の父親は将校として第一次北伐戦に従軍しておりました。第一次北伐戦の時彼の父親は馬謖(ばしょく)の軍におり、馬謖が孔明の言いつけを守らず山上に布陣したため、魏の名将である張郃(ちょうこう)に敗北。馬謖はこの敗北で孔明に斬られてしまいます。
また陳寿の父親も馬謖軍にいた事が原因で、髡刑(こんけい=髪の毛を剃る刑罰)を受けてしまいます。陳寿は父親に罪がないはずなのに、孔明のせいで父が刑罰を受けたためいい印象を持っておりませんでした。
【三国志執筆事件】馬謖が原因で孔明批判を行う!?
陳寿はこのように父親を罰した孔明にいい印象を持っていなかったため、「蜀書」孔明伝において孔明を批判するような文章を末尾に載せます。陳寿は「孔明は臨機応変に軍を進退させる戦の才能には乏しかった」と書きます(原文は「蓋し応変の将略は其の長けずる所にあらざるや」と優しく書いております。)。そのため後世では陳寿が孔明を嫌っていたのではないかと言われてしまいます。しかし彼は孔明を批判するような文章の前に、しっかりと孔明を褒めたたえております。
【三国志執筆事件】孔明の息子・諸葛瞻も批判
陳寿は孔明の息子である諸葛瞻(しょかつせん)にもいい感情を抱いておりませんでした。どんだけ諸葛一族に恨みを持っているのでしょうね。彼が諸葛瞻にいい感情を抱いていなかったのは、諸葛瞻の部下として働いていた時に、侮辱されたことが原因です。そのため寿は諸葛瞻の伝記の末尾にも「諸葛瞻は名声だけあって、実が伴っていない。」と記しています。この諸葛瞻批判の前にもしっかりと彼を褒めています。陳寿は彼を「書画がうまく、豊富な知識を持っている。また蜀の人は孔明の息子である諸葛瞻をみんな愛していた。」と記しています。そのうえで諸葛瞻の批判的な文章を載せているため、後世から叩かれてしまうことになります。
政争に巻き込まれ、地方に左遷される

陳寿はこのように後世からも色々と叩かれてしまっている可哀想な人でした。また彼は「三国志」を執筆した後、再び彼に不幸が襲うことになります。恩人である張華は、陳寿が素晴らしい歴史書を残した事を褒めた後、彼を出世させようとします。しかし張華は荀彧の一族で荀勖と仲が悪く政敵の間柄でした。張華は陳寿を出世させようと試みましたが、荀勖(じゅんきょく)の妨害により陳寿の出世は行われないばかりか、陳寿は地方に飛ばされてしまいます。しかし彼は母親が高齢であった事が幸いして、左遷から逃れることができました。
最大の悪評が待ち受ける
陳寿(ちんじゅ)は政争に巻き込まれるなど不運が連続して起こりますが、最大の不運はこれからやってくるのです。彼は高齢の母が亡くなると官職をやめて、葬式を行います。この時陳寿の母は陳寿に「洛陽に埋葬してくれ」と遺言を残します。陳寿は母の遺言を守り洛陽で葬式を上げ、この地に埋葬します。しかし陳寿のこの行動が再び悪評となって駆け巡ることになります。
親不孝者のレッテルが再び貼られる

この時代、家族や親戚、友人など人が亡くなると必ずその人が生まれた本籍へ、遺体を持ち帰って埋葬しなくてはなりません。しかし陳寿は母の生まれた場所に遺体を持ち帰らず、母の遺言に従って洛陽で埋葬してしまった為、再び「親不孝者」のレッテルをはられてしまい、周りから軽蔑の目で見られ、官職に再就職できなくなってしまいます。母親の遺言に従っただけなのに再びこんな事を言われる陳寿。本当にかわいそうです。
雌伏の時が訪れるも…数年で名誉回復
陳寿は周りから「親不孝者」として軽蔑されたことにより、再び官職へ就くのが難しくなります。しかし今回は以前のように長い期間官職に就けなかった訳ではありませんでした。今回は数年で再就職できるようになり、役職は太子中庶子(たいしちゅうしょし=晋の太子の側に使える役人)として復帰することができました。
不運続きの史家の人生が幕を閉じる
陳寿はこうして色々な不運に見舞われます。しかし彼は史家としての名声は晋の国内で大いに響き渡り、「三国志」はベストセラーとして名を残します。このように成功と絶望の二つを味わった彼は65才でその波乱の満ちた生涯に幕を閉じることになります。
三国志が不朽の名作となる
陳寿の死後、晋の二代目皇帝・恵帝(けいてい)の時代に、尚書郎(しょうしょろう)の范頵(はんくん)達が恵帝へ進言を行います。范頵は恵帝に「陳寿が書き記した「三国志」は教化の上で非常に役立つと思われます。前漢の名文家であった司馬相如に及びはしないが、一つだけ陳寿の三国志が優れている点があります。それは率直な文章で事実が述べられている事です。そのため陛下、陳寿が書いた「三国志」を書写して厳重に保管していただきたい。」と提案。
恵帝はこの提案を受け入れ早速陳寿の家へ役人を向かわせます。そして陳寿が書いた三国志は全て書き写され、宮殿に保管されることになります。こうして陳寿の三国志は厳重に晋の宮殿に保管された事で、何千年もの間、歴代王朝で大切に扱われることになります。そして現在まで戦乱などで焼かれることもなく、陳寿の書いた「三国志」読み継がれる史書として、歴史に名を刻む事になります。
三国志ライター黒田廉の独り言
陳寿の先生であった譙周は陳寿に「君は文章の才能があり、必ず成功するだろう。しかし必ず君を不幸が襲うことになり、挫折味わうことになるから気をつけなさい」と注意を受けておりました。陳寿は譙周の言った通りの人生を歩む事になってしまったが、彼の名著「三国志」を世に送る事に成功した事で、不運と帳消しになったのではないでしょうか。また評判というのは怖いものですね。陳寿が成功していないときは「親不孝者」として、罵ったり、軽蔑のまなざしを向けていたものが、彼が「三国志」で成功するなり一気に周りの人の目も変わり、陳寿にすり寄ってきた人も多くいた事でしょう。皆様が大成功した後にすり寄ってくるような人達には気を付けましょう。彼らはあなたが失敗した時にすべて離れて行ってしまう人達です。そんな人達よりも張華のような先生などしっかりと自分を評価してくれる人に出会うことをお勧めします。
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