羽柴秀吉(はしば ひでよし)。柴田勝家(しばたかついえ)を倒し、織田信孝を自害させて、滝川一益を降伏させることに成功。こうして織田家の内乱は終焉を迎えることになり、秀吉が織田家の実質的な権力者として君臨することになります。
秀吉は織田家の内乱を終焉させると彼は石山本願寺(いしやまほんがんじ)の本拠地であった場所に超巨大な建造物を建築することになり、この超巨大な建築物を見たある宣教師は「サンクトペテルブルク以東最大の建造物である。」と日記に記したそうです。この東洋最大と言っていい建築物は秀吉のシンボルともなる城となるのです。今回は秀吉が建築した超巨大な城・大阪城建築と彼の狙いをご紹介していきたいと思います。
センゴク一強大な城を建てよう!!
秀吉は柴田勝家を討ち果たすことに成功すると家臣達へ功績に応じて、領土をあげていきます。
秀吉のサポートに徹してくれていた織田家旧家老・丹羽長秀(にわながひで)には最大の領土を与えて今までサポート役に徹してくれていた感謝を示します。
他にも賤ヶ岳七本槍で功績を上げた若武者達へ領土を与えて、彼らの活躍を褒めたたえます。こうして勝家討伐戦に功績のあった者達への褒美を与えた後、彼は石山本願寺のあった場所に巨大な城を建築する計画を立てます。彼は軍師であった黒田官兵衛(くろだかんべえ)に命じて城の縄張りを命じて、設計図を作らせます。
こうして官兵衛が作った設計図が完成すると浅野長政(あさのながまさ)を総奉行に任命し、福島正則(ふくしままさのり)に大工・職人を差配する役目を与えます。そして秀吉の一門衆である杉原家次(すぎはらいえつぐ)に木材調達を行う役目を与えます。こうして大阪城建築プロジェクトが動き始めます。
配下の武将達にも役割を与える
秀吉は大阪城建築は信長が建築した安土城を超える城を築く一大プロジェクトでした。しかしこの一大プロジェクトには秀吉の隠れた思惑があったのです。それは旧織田家家臣団達と秀吉との上下関係をはっきりとさせることでした。
秀吉は自分に味方している旧織田家家臣団達を傘下に収めるため、「大阪城建築プロジェクトに参加してくれないか」と秀吉と同格であった武将達へ要請。この要請を発することで、己に従順に従うのかそれとも渋々従うのかを見極め、秀吉と旧織田家家臣団との間にしっかりとした上下関係を築こうと考えておりました。この秀吉の思惑はバッチリと的中。
旧織田家家臣団は秀吉の命令に従って大阪城築城に力を貸していくことになります。こうして旧織田家家臣団との上下関係をはっきりとさせることに成功した秀吉ですが、もう一つ大阪城の築城には隠れた狙いがありました。それは一体何だったのでしょうか。
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周辺諸国に秀吉の強さを見せつける
秀吉は大阪城築城プロジェクトにおいて、巨大で豪華な城を建築する必要性があると考えておりました。そのため官兵衛が描いた大阪城の設計図には巨大な城が存在し、豪華絢爛になっておりました。なぜ秀吉はこのような超巨大で豪華な城を建築する必要性があったのでしょうか。
それは諸大名(秀吉に従順な姿勢を見せている毛利家や賤ヶ岳の戦いで秀吉の要請に応じた上杉家などへ「自分はこんだけ大きな城を築くことが出来るんだぞ」と見せつけることによって、毛利家・上杉家が「秀吉にはかなわない」と抵抗する気力をなくすために豪華絢爛で巨大な城を築城する必要性があったのです。また敵対する諸大名にも大阪城という豪華で馬鹿でかい城を建築することで、自らの力を誇示し秀吉には勝てないと思わせることを狙っておりました。この秀吉が考えた効果は毛利家において顕著に表れることになります。
大阪築城後の毛利家
毛利家は秀吉と同盟しておりましたが、賤ヶ岳の開戦前に勝家から「サルではなく俺に味方してくれないか」と誘われます。毛利家としては秀吉と勝家どちらが勝つかわからなかったため、両者に消極的な支援を行います。毛利家がとった消極的な支援(中立的な姿勢をとるために)と両家に陣中見舞いとして贈り物を送ることでした。
両家へ贈り物を送ることによって、積極的な支援を両家に行わない代わりに贈り物を送ることによって覚えをよくして、中立の姿勢を貫くことにします。こうして柴田勝家と羽柴秀吉の戦いを見守った毛利家ですが、秀吉が勝家に勝利して大阪城築城を開始したことを知ると人質を彼のもとへ送ります。
毛利家は小早川家の秀包(ひでかね)と吉川家の広家(ひろいえ)を人質として、秀吉へ送ることで従順な態度を見せます。秀吉は毛利家から送られてきた人質の内吉川広家を返すことにします。彼としては毛利家に恩を売ることによって「俺は毛利家を信頼している」姿勢を見せます。毛利家は人質の広家が帰ってきたことに喜んで、毛利両川と言われた小早川隆景(こばやかわたかかげ)・吉川元春(きっかわもとはる)の二人が秀吉の元へ挨拶にやってくることになり、ここから毛利家と本格的な和平への道が開いていくことになるのです。まさに大阪築城の効果が発揮したと言えるのではないのでしょうか。
16年かけて完成した大阪城
秀吉は大阪城を完成せることができませんでした。その理由は大阪城が大きすぎてしまったことに原因があります。秀吉は官兵衛が作った設計書通りに大阪城築城を行っていくのですが、大阪城の工事を始めると数年では完成しない規模の大きさであることが判明。
しかし秀吉は己の力を見せつけるためには完成させるしかないと考えており、工事を行っていきます。そして大阪城が完成することになるのですが、大阪城完成に使った時間はなんと16年という途方もない時間がかかってしまいます。大阪城完成時には秀吉はこの世から居なくなってしまい、彼が大阪城の完成を見ることはありませんでした。
戦国史ライター黒田レンの独り言
大阪城はこうして途方もない巨大さと豪華絢爛な装飾を施していったため、膨大な時間がかかってしまうことになります。秀吉は大阪城の完成を見ることができませんでしたが、大阪城が完成した時にあるプロジェクトを行おうとしておりました。
それは大阪城に朝廷を遷都させる計画でした。この計画は従来宣教師のルイス・フロイスの日記にしか書かれていなかったため、信憑性がないとされてきておりました。
しかし徳川四天王の一人である本多忠勝からの書状からこの大阪遷都計画に関する事が書かれていたことによって秀吉が大阪に朝廷を遷都させようと考えていた事が判明。また秀吉が大阪城内に宮殿を作る計画を立てていたそうです。だが秀吉が立案していた大阪遷都計画は破綻してしまいます。その原因を作ったのは朝廷が大阪遷都に反対したからだそうですが、秀吉はこの朝廷遷都計画を一体どころから仕入れてきたのでしょうか。学のない秀吉がこれらの計画を立案できるとは考えられません。
それは織田信長からです。信長は安土城を完成させたとき城内に「御幸の間(みゆきのま)」と言われる宮殿を作り、安土城内に朝廷を遷都させる計画を立てていたそうです。秀吉はこの信長の立案した遷都計画をパクって大阪に朝廷を移動させようと考えていたそうです。さらに言えば大阪城を建築することによって、秀吉の力を内外に示すことになるという考え方も織田信長の考え方からパクったと言えるのではないのでしょうか。
参考 吉川弘文館 秀吉の天下統一戦争 小山田哲男著など
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