NHK大河ドラマ「どうする家康」第3話「三河平定戦」では、松平元康が幼い頃に離れ離れになった生母、於大の方が登場しました。久しぶりの母との再会に感涙にむせぶ元康に対し於大は、「すぐに今川と縁を切り織田につけ、妻子などは打ち捨てよ」と厳しい決断を投げつけます。元康はいきなり最悪の言葉を投げつけられ、於大に「出て行け」と吐き捨てるのですが、史実の於大はドラマとは正反対だったようです。
わが子を守るために人質に反対した於大
於大の方は家康の父である松平広忠に離縁された後に久松俊勝と再婚、そして、松平康元、松平康俊、松平定勝の3名の男子が生まれました。松平元康が名前を徳川家康に改めて三河で独立すると家康は母ばかりでなく、義父や異母兄弟を迎え入れて家臣とします。
小牧長久手の戦いの後、羽柴秀吉は於大が生んだ松平定勝を養子に欲しいと望み、家康も、これはよい話だと縁組を進めようとします。しかし、これに於大が猛反対したのです。
関連記事:バテレン追放令より長かった河豚禁止令とは? 秀吉が禁止したふぐ食の歴史
私の子を二度と酷い目には遭わせない
於大の方が定勝を養子に出すのに反対したのは理由がありました。定勝のすぐ上の康俊が今川氏真の人質として駿府に出された後、武田信玄の駿河侵攻に遭い、今川家の家臣である三浦与一郎により武田に売り渡されたのです。1570年康俊は、家康の手引きで武田の元から脱出しますが、冬の山道を歩く間に足が凍傷にかかり指を切断しました。
於大は障害を負った康俊を不憫に思い、定勝に同じ思いをさせてなるものかと猛反対。親孝行の家康は、これに弱ってしまい自分の次男の秀康を秀吉に送って済ませました。親にあたれない家康は代わりにしばらくの間、定勝を冷遇したとも伝わります。
戦国の倣いに反対した於大
通常、手柄を立てなくても高位につける家康の縁戚にとって、人質として他の大名家に入る事は自分の地位を確立するために願ってもないチャンスでした。於大も兄の水野信元の指図で、二度も嫁いだのですから、そんな事は百も承知だった筈です。それでも、わが子に危害が及ぶかもしれないと定勝の養子に反対した於大の方は、戦国の倣いよりも母の情を優先してしまう優しい女性だったのかも知れません。於大が庇った松平定勝は、紆余曲折を経ながら伊勢桑名藩から伊予松山藩に15万石で移封となり、定勝の家系は明治維新を迎えるまで存続しました。
▼こちらもどうぞ
武田信玄は城を築かない!その代わりに生涯を懸けて整備したのは何?