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[明智光秀は築城家でもあった。]坂本城、福知山城、亀山城から光秀のスキルの高さをしのぼう!

2023年3月10日


 

明智光秀 麒麟がくる

 

今回は明智光秀(あけちみつひで)城主(じょうしゅ)になった城の中から、坂本城(さかもとじょう)亀山城(かめやまじょう)(現在の亀岡城)・福知山城(ふくちやまじょう
)
について取り上げます。

 

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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坂本城とはどんな城?

 

 

坂本城は現在の滋賀県大津市(しがけんおおつし)にあります。坂本城が築城される前、平安時代初期の僧・最澄(さいちょう)が比叡山延暦寺に天台宗(てんだいしゅう)を開きました。延暦寺の門の前に坂本という場所があり、門前町として栄えていました。また、坂本は京に近く、琵琶湖を活用した水上輸送の重要な場所となっていました。

明智光秀の居城だった坂本城とは?本能寺の変後の坂本城も紹介』によれば、坂本には約50ヵ寺の里坊がありましたが、織田信長(おだのぶなが)が比叡山を焼き討ちにするまで坂本城はありませんでした。織田信長は家臣の明智光秀に坂本に城を築城するよう命じたことがきっかけで、坂本城ができました。

 

明智光秀は坂本城の城主となると、石山本願寺(いしやまほんがんじ)一向一揆(いっこういっき)丹波国(たんばのくに)平定・京の都市計画などの拠点とします。本能寺の変後、坂本城は明智秀満が火を放ったことで焼けました。豊臣秀吉(とよとみひでよし)が再建を命じてしばらくの間使われていましたが、浅野長政(あさの ながまさ)が坂本城から大津城へ居城を移したことで坂本城はなくなりました。

 

 

 

亀山城(現在の亀岡城)はどんな城?

 

 

亀山城は現在の京都府亀岡市(きょうとふかめおかし)にあります。織田信長が明智光秀に丹波国平定の命令を受けていました。明智光秀が丹波国平定の拠点として築城した城です。亀山盆地に天守閣がある平山城です。

 

当時、光秀の丹波国平定の拠点にした場所は亀山といいましたが、明治時代から亀岡に名前を変えました。城の名前も亀山城から亀岡城になっています。明智光秀が1582年の山崎の戦いで敗れた後、豊臣秀吉の重要拠点となり、秀吉の一門が城主となりました。江戸時代も重要拠点となり、徳川幕府の譜代大名が藩主を務めました。

 

明治になると、廃城令(はいじょうれい)により亀山城(亀岡城)の廃城が決まりましたが、大本教(おおもと‐きょう)出口王仁三郎(でくちおにさぶろう)が購入します。城内に大本教の施設を築いたことで、明治政府から爆破するよう命じられ、大本教から破格の値段で亀岡市に売却させようとしました。戦後になると大本教の聖地となり、現在に至っています。

 

関連記事:明智光秀の出世の糸口「本圀寺の変」って何?

 

 

福知山城とはどんな城?

 

明智光秀が丹波国平定に成功した1579年に福知山城を築城しました。翌年、丹波国で由良川と土師川が合流する地点で洪水が起こっていましたが、由良川を北に付け替える治水工事に成功しました。この治水工事の成功で、明智光秀は現在でも福知山市の市民から慕われています。

 

1582年の本能寺の変後、明智光秀は山崎の戦いで敗れ、農民に殺害されました。福知山城は明智秀満の父が城代となっていましたが、逮捕され処刑されました。明智光秀の後、福知山城は江戸時代まで続きます。

 

明治時代に廃城令が出され、解体されました。建物で城門は地元のお寺の山門として移築されたと伝えられています。戦後になると福知山城は1985年に復元されました。福知山城公園として整備され、市の重要指定文化財となっています。2017年に「続日本100名城」にも選定されています。

 

 

戦国時代ライターオフィス樋口の独り言

 

今回は明智光秀の築いた城の中から坂本城・亀山城(現在の亀岡城)・福知山城を取り上げました。これらの城の城下町について、明智光秀が領民から慕われていたという記録が残されていて、明智光秀の都市経営の能力が高いことが分かります。2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』の放送で、明智光秀に対する評価が変わる可能性があります。

 

都市経営の能力の高さでは現在の滋賀県近江八幡市の基礎を築いた豊臣秀次が挙げられます。豊臣秀次は小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい
)
で負けたことで評価を落としていますが、都市経営を通して見直す価値はあるのかもしれません。都市経営の能力では佐和山城城主の石田三成(いしだ みつなり)も挙げられます。明智光秀を通して、様々な戦国武将の評価の変化にも注目したいと思います。

 

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自己紹介:フリーランスで予備校の講師をしています。 歴史が好きで、予備校では主に日本史を指導しています。 センター試験の点数を40点台から80点台に伸ばした実績があります。 好きな歴史人物:徳川慶喜(理由:多趣味であることが共通しているから)

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