織田信長は戦国時代の大名の中でも多くの鉄砲を保有していた大名でした。しかし鉄砲は日本で機械を生産することが出来ても、鉄砲を放つ火薬などを日本で生産するのはかなり難しかったそうです。
ところが織田信長は鉄砲を並べて多くの敵兵を倒していました。どうやって織田信長は火薬などを手に入れていたのか。それは南蛮貿易から入手していたのです。
輸入に頼りっぱなし
戦国時代に使用されていた鉄砲。鉄砲は弓矢よりも遠くから敵軍を攻撃できる武器と認識され、多くの戦国大名が導入していきます。しかしこの鉄砲は国内で大量に使われていたにも関わらず、国内でほとんど材料を生産することのできない、致命的な欠点がありました。
国内で材料を調達できない鉄砲をどうやって戦国大名たちは使っていたのか。それは海外からの輸入されてきた材料を買って、鉄砲を使っていたのです。鉄砲の材料がどれだけ海外の輸入に頼っていたのかを表すデータがあるので紹介したいと思います。
田中城での戦い
1587年肥後一揆が勃発。一揆軍は肥後・田中城に籠城して、一揆を鎮圧しに来た豊臣軍と戦いを繰り広げます。豊臣軍は一揆勢を討伐するため、多くの鉄砲をこの城へ打ち込みます。
この城に打ち込まれた鉄砲の材料の産地はタイのソントー鉱山と言われる場所から輸入されてきた鉛で、37パーセントだったそうです。他にも弾薬の材料となっているのは外国ばかりで、国産品は半分以下でした。
このことから鉄砲玉の材料となっている鉛のほとんどが外国から輸入されている物だったことが分かります。さてこの外国から輸入されてくる鉛ですが、どこの国が日本へ輸入してくるのでしょうか。
ポルトガル船の貿易の最終駅・堺
戦国時代の堺は海外との貿易品が流れてくる場所で、この土地で販売されていました。堺に物品を運んでくる海外の船はポルトガル船のシェアが一番多かったそうです。
ポルトガル船はインドやゴアなどで日本人が喜びそうなものを買った後、日本の堺にやってきてインドやゴアで買った物を販売していたそうです。その後ポルトガル船はインド・ゴアなどで仕入れてきた物品を販売して得た金で、日本の特産品などを大量に入手し、再びインドやゴアなどへむかって出航し、現地で日本から仕入れてきたものを売って利益を得ていました。
このポルトガル船がインド・ゴアで買ってくる物は日配品の他に鉄砲の材料となる鉄・弾薬・火薬などを堺で売っていたそうです。そのため堺はポルトガル船が到着し、火薬や弾薬を入手することができる数少ない場所として、戦国時代においてとっても重要な地点だったのです。
堺を支配地におさめた信長
織田信長は京都に上洛した際、自治統治している堺を武力で脅して屈服。その後織田信長は堺を手中に収め、鉄砲に使う鉄や火薬、硝石などを大量に入手し、鉄砲を戦へ大量投入して敵軍を圧倒する火力を出現させることに成功するのでした。
戦国史ライター黒田レンの独り言
日本の戦国時代の初期は刀や弓矢などが主流でした。ところが、フランシスコ・ザビエルによって鉄砲が伝来されると戦の内容が激変。
今まで戦国大名たちは戦が起きると刀や弓を使って敵を倒していましたが、鉄砲の出現によって刀や弓矢よりも鉄砲が戦場での主流武器へ変化していきます。そして鉄砲は戦国時代中期から後期にかけて大名たちの主力武器であったにもかかわらず、外国からの輸入に頼りきりでした。
このことを考えると戦国時代は外国の輸入が無ければ、戦が立ち行かないことになり、ポルトガル船のおかげで何とか主流武器を使って戦うことが出来たと考えることができるのではないでしょうか。
■参考文献 青春出版社 経済で謎を解く関ヶ原の戦いなど
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