【織田信長の性格】浅井長政が叛いたのは信長がジャイアンだから

2019年1月13日


 

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織田信長

 

戦国の風雲児織田信長(おだのぶなが)は、同時に戦国史上最も裏切られた大名だとも言えます。それは、浅井長政(あざいながまさ)から始まり、武田信玄(たけだしんげん)上杉謙信(うえすぎけんしん)毛利元就(もうりもとなり)松永久秀(まつながひさひで)荒木村重(あらきむらしげ)明智光秀(あけちみつひで)の7名。しかも、松永久秀については複数回裏切られています。

 

織田信長を裏切り謀反を起こす荒木村重

 

幾ら下克上(げこくじょう)の戦国とはいえ、あまりに裏切られすぎではないでしょうか?そこで、今回は織田信長を裏切った栄えある第一号、浅井長政について紹介します。彼の場合、織田信長のジャイアンぶりが裏切りに影響したようです。

 

※この記事は河出書房出版 織田信長不器用すぎた天下人を参考に執筆しました。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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共通の敵六角氏と斎藤氏に対抗する為に同盟を結ぶ

浅井長政(あざいながまさ)

 

浅井長政と織田信長は、当初、共通の敵である六角氏&斎藤氏に対抗する目的で同盟しました。上洛前の信長は斎藤龍輿(さいとうたつおき)が当面の敵でしたが斎藤氏は六角氏と結んでいたのです。一方の浅井氏は北近江守護の京極氏(きょうごくし)と南近江の六角氏(ろっかくし)の間を利害によって往来していましたが、浅井長政が当主になると、六角氏の重臣から迎えた正室を離縁して京極氏に組みするようになりました。

お市の方(柴田勝家の妻)

 

こうして、六角氏を敵とするという一点で織田家と浅井家の利害は一致します。信長は妹のお市の方を長政に与えて両者は姻戚関係になります。ここまでは、共通の敵に対するという意味で対等同盟だったのです。

 

信長が上洛して立場が一変

足利義昭

 

しかし、信長が美濃の斎藤氏を滅ぼして足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて京に入ると両者の関係に大きな変化が生じました。すでに背後に斎藤氏を抱えなくなった織田氏にとって、浅井氏との同盟の価値が、相対的に低下したのです。そんな信長の本音が見える書状が長政が裏切った後に毛利元就に宛てられ出されています。

 

彼らの儀、近年別して家来せしむるの条、深長に隔心なく(そうらば)

 

長政については、近年は特に近しい家来として扱っていて、深い関係で疎遠ではありませんでしたと書いています。これは、長政には仰天の認識でしょう。対等同盟と思っていたのが、いつの間にか深く信頼で結ばれた家来ですと格下げされているのです。

 

織田信長スペシャル

 

徳川家康と比較しても軽い扱い・・

徳川家康

 

浅井長政が同盟者として軽い扱いだったのは、同じく信長と同盟関係だった徳川家康と対比してみると分かりやすいと思います。永禄十三年(1570年)正月、長政が信長を裏切る数か月前、信長は禁裏御所の修理や室町幕府の御用の為に畿内及び、その周辺の大名に上洛命令を発しています。

同年小録(書物・書類)

 

その時に上洛に応じた大名の名前が奈良の僧侶、二条宴乗(にじょうえんじょう)日記にあり、筆頭の伊勢、北畠氏の次に徳川三河守と同盟者徳川家康が上がっています。一方、浅井長政はというと、京極殿の下に「同浅井備前(あざいびぜん)」と細字で書かれていました。これは、当時の書法で、京極氏の家来という意味だったそうです。

 

信長の扱いでは、家康は対等な同盟者でも長政は自分と対等の京極氏の家来という陪臣(ばいしん)扱いだったのです。

 

お前には妹と北近江をやっただろ!信長のジャイアニズム

ちょっとしたことでブチ切れる織田信長

 

織田信長が浅井長政を軽く見ていた証拠として大きいのは、金ケ崎の引き口での浅井氏裏切るという第一報を受けた時の信長の反応です。

 

「浅井は歴然たる御縁者たるの上、あまつさえ江北一円に仰せ付らるるのあいだ、不足これあるべからずの条、虚説たるべし」

 

これは長政は親戚であり、おまけに北近江を与えてやったのだから、俺に不満があるわけがない裏切りはデマだという意味です。長政が信長の言い分を聞いたら激怒するでしょう。

 

「北近江はあんたからもらったのではない!浅井氏の先祖代々が血と汗で掴んだものだ」

 

人の心が分からない織田信長

 

浅井氏が自力で守って来た北近江を俺がくれてやったと言い切る傲岸不遜(ごうがんふそん)、この態度こそ浅井長政を裏切らせたのです。まさにお前のモノは俺のモノ、俺のモノも俺のモノという信長のジャイアニズムが長政を背かせたと言えないでしょうか?

 

戦国時代ライターkawauso編集長の独り言

 

信長には独善的という性格的な欠陥があったようです。俺は善い事をしている、あいつには尽くしている、だから、不満なんてもたれる(はず)がないんだ。良い意味で言えば、相手に不信感を持たない善意から入る性格なのでしょう。そうして、全く善い事をしたつもりで相手のプライドを傷つけるのですから不満をもつ側から見ると、たまったものではありません。

 

迷信を恐れる織田信長

 

浅井長政は、明智光秀や豊臣秀吉(とよとみひでよし)と違い信長に所領を与えられて大名になった人ではなく、北近江は彼の先祖が苦労して掴んだ土地でしたから、それを俺が与えてやったような顔をして家来扱いする信長に我慢が出来なかった、これこそが浅井の裏切りの真相ではないでしょうか?

 

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麒麟がくる

 

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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