織田信長といえば南蛮文化を積極的に取り入れたり、改革を行ったりしたことで有名です。
今回は織田信長が取り入れた文化や行った改革で後世に影響を与えたものについて取り上げます。この記事の前半ではキリスト教の布教が許されるまでの過程と織田信長がキリスト教の布教を許した狙いについて取り上げます。
後半では南蛮文化を取り入れたことによる日本の城の変化について取り上げます。
キリスト教の宣教師が織田信長から布教を許されるまで
1543年、ポルトガル戦が種子島に漂着し、鉄砲が伝えられました。
この漂着について、当時の日本人が初めてヨーロッパの人々を見ました。
当時の人々はヨーロッパの人々を南蛮人といい、彼らの持ち込んだ文化を南蛮文化といいました。
1549年、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に着き、キリスト教を伝えます。その後、ザビエルの一行は山口を経て京都に着き、織田信長に会いました。
織田信長からキリスト教の布教の許可を得ます。
織田信長がキリスト教の布教を許した狙いとは?
織田信長は足利義昭を伴って上洛し、15代将軍に擁立しました。
しかし、織田信長と足利義昭は次第に対立するようになります。
足利義昭は織田信長を攻めるよう全国の大名に呼びかけ、包囲しました。
この包囲を信長の包囲網と呼びます。足利義昭の呼びかけに応じたのは、一向一揆・浅井長政と朝倉義景の連合軍、武田信玄・上杉謙信・毛利輝元です。
信長は包囲網の中で一向一揆との戦いに苦戦していました。一向一揆に対抗する手段としてキリスト教を取り入れたといわれています。当時の仏教勢力はお布施や政界とつながることで権力を持っていました。
信長は仏教徒からキリスト教徒に変えることで、仏教勢力の切り崩しを図りました。信長がキリスト教の布教を許した結果、城下町の安土にセミナリオやコレジオというキリスト教の教育機関ができました。
南蛮文化の影響と日本の城の変化
1543年に種子島に鉄砲が伝えられると、日本の城は大きく変わりました。
山や川など自然を利用して防御を最大限に利用するために、山の上や小高い丘に建てられていました。鉄砲を利用した戦いが主流になると、日本の城は山の上や小高い丘から平地に建てられました。
織田信長は南蛮文化を積極的に取り入れ、城の建設と街づくりに活かしました。従来の日本の城では、大名の政治を行う天守閣と居住する場所は別々でしたが、安土城では信長が政治と居住を同じ場所で行っていました。
また、安土城の城内の道は広くて歩きやすくなっていたことから政治的な機能を重視したと考えられます。何らかの形でキリスト教の宣教師から西洋の街づくりについて学んだのかもしれません。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は織田信長が南蛮文化を取り入れたことによる影響について取り上げました。前半では信長がキリスト教の布教を許した狙いについて取り上げました。後半では、南蛮文化の影響と日本の城の変化について取り上げました。
織田信長は城や街づくり以外でも南蛮文化を取り入れます。特に西洋風のマントと帽子は好きだったようで、西洋風の格好で出かけていたことは有名です。また、戦では西洋甲冑を愛用していたといわれています。
西洋甲冑は硬い鉄板でできていて、鉄砲の弾丸は貫通しないという特徴があります。本能寺の変で信長が自害した後、西洋甲冑を使った戦国武将がいるのか気になります。
最後に、もし本能寺の変がなく織田信長が生きていたら南蛮文化の影響がさらに続いた可能性があります。
政治の拠点だった安土城では、当時ほとんどの日本人が権力者を間近で見ることができませんでしたが、信長は安土城の天守閣で人々の前に出てローマ法王の演説のまねをした可能性があります。
日本が産業革命や民主化の先駆けになったのかもしれません。
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