今回は徳川家康の家臣で、徳川四天王の1人である榊原康政の墓について紹介します。前半では榊原康政の生涯について、後半では榊原康政の墓と以降の館林藩について取り上げます。
榊原康政とは?
榊原康政は1548年に榊原長政の嫡男として生まれました。
1560年の桶狭間の戦いに備えて、大高城に兵糧を輸送してから三河国の大樹寺に入りました。榊原康政が徳川家康(当時、松平元康)に最初に出会ったのは三河国の大樹寺であるといわれています。当時、康政は元服する前の12歳で、小平太と名乗っていました。
1563年の三河国一向一揆が初陣で、一向一揆の弾圧で武功を挙げました。この一向一揆弾圧の後、元服して康政と名乗ります。以降、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、高天神城の攻撃で先陣を務める働きで落城させる活躍をしました。1582年の本能寺の変後の伊賀越えでは三河本国まで随伴するなど家康を守りました。
1590年、小田原城攻めに従軍し、豊臣秀吉が全国統一を果たした後、徳川家康は関東地方に転封されました。家康の転封に合わせて、榊原康政は関東に拠点を移し、家康から上野国の館林城10万石が与えられました。
1600年、関ヶ原の戦いで東軍が勝利すると、1603年に徳川家康は江戸幕府を開きました。江戸幕府の中で康政は家康の側近となりましたが、本多正信・正純親子と対立したことがきっかけで江戸幕府から退きました。1606年、病気により59歳で死亡しました。
榊原康政の墓はどこにある?
榊原康政は1590年から上野国の館林城の城主となりました。館林城の城主になると、城下町の整備や利根川・渡良瀬川の治水事業に取りかかります。中山道から日光街道に合流する日光脇往還を新設するなど公共事業にも取り組みました。現在の群馬県館林市の基礎を築いたことで知られています。
榊原康政の墓は群馬県館林市の善導寺にあります。善導寺は708年に僧・行基によって建てられました。鎌倉時代には浄土宗の寺院跡なりました。戦国時代の戦乱の中で善導寺は一時荒れ果てしまいましたが、榊原康政が館林城の城主になると100石を付して寺を再興したと伝えられています。現在、善導寺は群馬県指定の史跡となっています。
善導寺には榊原康政だけでなく、康政の跡を継いだ館林藩主2代目の榊原康勝の墓があります。館林藩藩主としての榊原家は白河藩に転封となりましたが、転封後も現在まで榊原家の菩提寺となっています。
善導寺へのアクセス方法
善導寺へのアクセスは東武鉄道が便利です。東武伊勢崎線館林駅から車で約12分、東武日光線板倉東洋大前駅から車で約15分の場所にあります。なお、館林城へのアクセスについては東武鉄道館林駅から徒歩15分の場所にあります。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は戦国武将で徳川四天王の一人として知られている榊原康政について取り上げました。榊原康政といえば槍一本で武功を挙げてきたことで有名ですが、館林城の城主になってから街づくりなどの手腕について知ることができました。今後、城主になった戦国武将で、街づくりで実績を残した人物に注目したいと思います。
最後に、榊原康政以降の館林城と館林藩について取り上げます。榊原康政の後、榊原康勝が継ぎました。三代目も榊原家で、1643年まで榊原忠次が館林藩藩主でした。榊原家が白河藩に移ったことから、四代目と五代目は浜松から転封となった松平家が館林藩藩主となりました。松平家が下総国の佐倉に転封となってから、4代将軍徳川家綱の弟徳川綱吉が館林藩藩主となります。
館林藩藩主だった徳川綱吉が5代目の江戸幕府の将軍となると、当時幼かった長男が藩主を継ぎますが、幼くして死亡したため天領となりました。徳川綱吉以降、譜代大名が館林藩藩主となっています。
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