明智光秀は織田信長を殺害するため、大軍をひきいて本能寺を包囲。その後、明智光秀は「敵は本能寺にあり」とチョー有名な名言を述べて軍勢へ号令します。
上記は明智光秀をよく知らない人でも一度くらいは聞いたことのある言葉だと思います。
しかし明智光秀は「敵は本能寺にあり」なんて一度も言っていませんでした。
「敵は本能寺にあり」は誰の言葉
明智光秀は本能寺を包囲後、自軍の兵たちへ向けて「敵は本能寺にあり!!」と号令をかけていませんでした。ではいったい誰がこの「敵は本能寺にあり」と述べたのでしょうか。
実は誰も「敵は本能寺にあり」なんて言葉を言っていないのです。ではどうして後世に「敵は本能寺にあり」と伝わったのでしょうか。
「敵は本能寺にあり」は後世の創作物だった
実は「敵は本能寺にあり」と言う言葉ですが、後世の創作物だったのです。
ではいったい誰が創作したのでしょうか。
その人物は「日本外史」の作者・頼山陽です。彼は「日本外史」で「敵は本能寺にあり」と記載し、この言葉がそのまま後世へ明智光秀の名言として伝わることになったそうです。
明智光秀は本能寺を包囲した時、「敵は本能寺にあり」と言っていませんでしたが、一言も言わないで本能寺へ攻撃を仕掛けたのでしょうか。
本能寺襲撃前に細かい指示を出していた
明智光秀は本能寺攻撃する直前にはこれといった言葉を述べていません。しかし明智光秀は本能寺襲撃をする前、兵士たちへ細かい指示を出しています。
明智光秀はどのような指示を出していたのでしょうか。
明智光秀は京都の近くを流れる桂川へ到着すると兵士たちへ「馬の沓を切り捨てること。徒の者は足半(かかと部分のない草履のこと)に履き替えること。そして鉄砲隊は打ちやすいように火縄を一尺五寸に切ること」などを指示したそうです。
さらに明智光秀は兵士たちの士気を上げるためにある言葉を伝達させます。
本能寺襲撃前に述べた言葉とは?
明智光秀は本能寺襲撃前、兵士たちへあれこれ細かい指示を出します。その後明智光秀は兵士達へ「今日より私は天下様だ。兵士諸君勇むべし」と激励したそうです。
また明智家の重臣・斎藤利三は「京都の町のくぐり戸はいつもどおりに開き、そこを抜けて扉を開けよ。そして扉を開けたら一人一人、本能寺へ向かって進んでいくが良い。」と京都に到着したとき、注意点を述べているそうです。
上記は「川角太閤記」と呼ばれる書物に記載されており、当時のリアルな実情を想像することができるのではないのでしょうか。こうして明智光秀率いる軍団は光秀や斎藤利三の指示に従って本能寺へなだれ込んでいくことになります。
戦国史ライター黒田レンの独り言
明智家の重臣たちは明智光秀が京都の本能寺に宿泊している織田信長を殺害しようと考えている事を知っていました。しかし兵卒たちは明智光秀の意図を全く知りませんでした。
その証左として明智軍の兵士の一人本城さんは途中で京都へゆくと隊長に告げられると「殿様は徳川家康を攻撃するために京都へ向かうのだろうか」と思っていたそうです。明智軍の兵卒たちは光秀が織田信長を殺害するために本能寺へ向かったと考えている兵士達はほとんどいなかった事を物語っています。
また本城さんの証言から明智軍の兵士達は織田信長が宿泊している本能寺と呼ばれる寺の場所さえ知らない状態だったそうです。
そのため本能寺の変は明智光秀が計画的かつ作戦がバレないように最新の注意を払った作戦で、本能寺を前にして「敵は本能寺にあり」等と光秀が本能寺へ叫んだ可能性がゼロに近いのが実情だったのではないでしょうか。
・参考:検証 本能寺の変 (歴史文化ライブラリー)
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