明治政府は江戸幕府の時代に締結した不平等条約の改善に向けて、岩倉具視を代表する岩倉使節団は欧米諸国と交渉しますが失敗に終わります。結果、岩倉使節団は条約の改正を断念して欧米諸国を視察しました。
岩倉使節団が渡航した年に清国と対等な条約を締結することに成功しました。この対等な条約のことを日清修好条規といいます。今回は明治政府の最初の対等条約である日清修好条規について取り上げます。
*条規とは決まりという意味で用いられていますが、この記事では国と国の決まりという点で条約と同じ意味で使います。
日清修好条規とは
日清修好条規とは1871年に日本と清国の間で結ばれた対等条約です。日本と清国が領事裁判権(治外法権)と関税自主権を相互に認めています。このような対等な関係に関する決まりは日清修好条規の第八条に書かれています。
これまで日本は欧米諸国に対して、領事裁判権(治外法権)を認めるだけでなく、関税自主権もない不平等条約を締結してきましたが、初めて対等な条約を締結することに成功しました。この条約は日清戦争まで適用されています。
清との対等条約日本の狙いとは?
伊達宗城
日本は清との対等条約を締結しますが、日本の狙いはどこにあるのでしょうか。琉球と李氏朝鮮の2国に対する外交関係に注目します。
(1)琉球王国
琉球王国の宗主国は清国でした。1609年に薩摩藩が3000の兵を率いて琉球王国を侵攻しました。琉球王国は島津の鉄砲隊に為す術もなく、敗退しました。琉球王国は薩摩藩の属国にもなり、清国と薩摩藩の二重の支配を受けることになりました。
江戸時代になると琉球王国は、江戸幕府に使節を送りました。使節の名前は慶賀使と謝恩使です。慶賀使は江戸幕府の将軍の代替わりごとに琉球王国が江戸に送る使節のことです。
謝恩使は琉球王国の国王の代替わりごとに江戸幕府に送る使節のことです。江戸幕府に国王が替わったことを報告することが目的でした。江戸幕府から明治政府になり、日清修好条規を締結することによって、薩摩藩の頃と同様、琉球王国に対して優位な立場に立つことが狙いだったと考えられます。
(2)李氏朝鮮
李氏朝鮮は清国の属国でした。江戸時代からロシアの南下政策によって日本に接近するようになりました。ロシアの南下政策の狙いについては凍らない港を求めていて、南下政策の標的が朝鮮半島だったと考えられます。江戸幕府から明治政府に替わると、ロシアの南下政策に備えて、清国と対等な条約を結ぶことによって、李氏朝鮮に対して優位な立場に立とうとしました。
どうして日清修好条規が結ばれた?
日清修好条規の対等性には、アジアの大国と見做されていた清に対して、小国日本が外交上対等の立場であると西洋諸国にPRする目的もありました。それまで清は華夷秩序の元で琉球や朝鮮を属国として扱い、日本に対しても属国ではないものの、対等な関係とは見做していませんでした。そこで、まず日清修好条規を結んで日本の地位を清と対等なものとし清に服属する琉球や朝鮮に対し日本の発言力を強化する狙いがあったのです。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
日清修好条規後の琉球王国と李氏朝鮮について取り上げます。まず、琉球王国は1872年に日本が一方的に琉球藩を設置しました。初代琉球藩の藩主は尚泰でした。
1874年に琉球漁民が殺害された事件を契機に台湾に出兵します。この事件はイギリスの調停によって解決しましたが、調停において日本は台湾に対して優位になったことが認められました。1879年に琉球処分が行われ、琉球藩はなくなりました。琉球藩から沖縄県と名前が変わるとともに日本の一部となりました。
次に、李氏朝鮮について取り上げます。江戸幕府から明治政府に替わると、江華島事件が起こりました。江華島条約の講和条約は日清修好条規といいます。李氏朝鮮が日本に対して、領事裁判権(治外法権)と関税自主権を認めた条約で、日本にとって有利な不平等条約でした。
日清戦争後、李氏朝鮮は下関条約により清国から独立します。李氏朝鮮は独立しますが、オランダのハーグに密使を送ったため、日本国の保護国となりました。1910年に朝鮮は日本の植民地となりました。
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