日本古代史上最大の内乱と言われる「壬申の乱」において、従来、主に注目されてきたのは、「大海人皇子(天武帝)」と大友皇子との対決や、大海人皇子と、大友皇子の父であり、大海人皇子の実兄でもあった「天智帝」との関係だったのではないでしょうか?
しかし、大海人皇子の側には、乱の発生前から終わりまで、妃の、鸕野讚良皇女が、ずっと付き添っていたことが、影に隠れていたのではないでしょうか?
この、鸕野讚良皇女こそ、後の「持統帝(持統天皇)[645年~702年]」です。壬申の乱における、大海人皇子(天武帝)側の勝利は、彼女、持統帝の付き添いなくしてあり得なかったと考える説も、今世紀に入ってからは目立ちます。
今回は、持統帝の存在感の強さを探っていきたいと思います。お楽しみください。
持統帝の影響力
まず、持統帝の功績について、幾つかあげてみます。
①今では、「天皇」即位のときに必ず行うのが「天神寿詞(あまつかみのよごと)」。これは、天皇であることの宣言ですが、これを初めて行ったのです。
②歌人・柿本人麻呂に天皇称賛の歌を読ませました。
③天皇の火葬を遺言により初めて実施。以降、天皇家は火葬が通例となります。
④日本古代史最大規模を誇ったと伝わる「藤原京」への遷都を実施。
持統帝の代では、天皇即位宣言や天皇の葬儀を火葬に変更するなど、初めての壮大な儀礼を次々と実施していたのです。権力があったこそではないかと考えられますね。
なぜ、持統帝は影響力を持てたの?
持統帝から女帝の時代が始まったとも言われていますが、持統帝の時代以前にも女帝はいました。
確実に実在の人物とされているのは、「推古帝[554年~628年]」や「皇極帝(斉明帝)[594年~661年]」です。ただ、この二人は、男性後継者がいなかったために誕生した、偶発的で、中継ぎの役割の天皇即位だったと言われています。
一方、持統帝は、実力者で、権力の中枢にて、その指導力を発揮したと言われています。
それは、彼女の出身地から分かってくるのです。幼少期を過ごしたのが、奈良の飛鳥地域に近い、「河内安宿」という所だったのです。そこは、朝鮮半島からの渡来系の百済出身者の多くが住んだと言われています。そして、彼らが、先進的な大陸の文化や学問を伝えたとされています。
先進的な知識人の彼らからの教育を、幼少の持統帝は、受けていたと言うのです。ということは、次のような疑問が浮かびますね。
持統帝は、百済びいきだったの?
となると、天武帝は新羅びいきのはずでしたから、
天武帝と持統帝は対立したの?と考えたくなります。
しかし、次のことからそうでもないことが分かってきます。それは、持統帝は、家臣であった「藤原不比等」と、共通の師の元で学んだ可能性が高いという事実です。
不比等の方は、幼少期は、山科(現在、京都市山科区)に住み、河内安宿に居住する百済系氏族の者から学んだと言われています。持統帝が学んだ人物とは、近い間柄の人物に学んだ可能性があると言われているのです。
さらに、その不比等の父の「藤原鎌足(中臣鎌足)」は、新羅と唐の両面外交を支持した立場だったそうです。
つまり、新羅VS唐との戦争の行方を見定め、新羅につくか、唐につくかを判断しようとした立場だったと考えられそうです。新羅派でもあり得たということです。
自然と、息子の不比等もまた、両面外交を支持する派だった可能性を考えられますし、近い人物を師として学んだ、持統帝も、同じ政策を支持した可能性があるでしょう。
藤原一族の影
宰相・藤原鎌足の世界情勢を見る力が、そのまま、息子の藤原不比等と、持統帝にも受け継がれていた可能性があります。
つまり、天武帝や持統帝の先見性というのは、その裏で、藤原鎌足の影響力が働いていたと言えるでしょうか。
ただ、持統帝自身にも、指導力や先見性の力があったことは、有力視されています。特に、先ほど例に挙げました、天皇宣言の儀式である「天神寿詞(あまつかみのよごと)」を初めて行ったことは大きな根拠になるのではないでしょうか?
傀儡や中継ぎなどの軽い存在の女帝であれば、初めての、天皇即位の宣言を実施する力はなかったと考えます。とはいえ、藤原一族の影響力は避けて考えることはできません。
しかし、後の平安時代の藤原家の隆盛へと、つながっていく前に、藤原一族が、なかなか政権の中枢に、表立って出て来そうで出られない時期が百年くらい続きます。それが、持統帝の代から「孝謙帝[称徳帝]」(718年~770年)の代にかけてです。
持統帝の存在感と影響力のまとめ
この時期は「奈良時代」とも言われる時代ですが、比較的、女帝の輩出が多い時代でした。一説では、それは、その時代に皇位にふさわしい男性が早世のため、仕方なく、云わば「中継ぎ」としての女帝が誕生し、連続したという意見も幾つか見かけます。
しかし、今回、注目している、持統帝は、そのような軽い扱いではない可能性が高いことがお分かり頂けると思います。
そして、持統帝以降の「奈良時代」の女帝たちにも、最近では、中継ぎではなく、女帝も当然の選択肢であって、慣習化していたという説が有力になっているように見えます。
それは、なぜでしょうか?
当時が、「フェミニズム」の時代だったとも言えるのでしょうか?
次回は、奈良時代に注目します。お楽しみに。
【参考】
・『女帝の世紀 皇位継承と政争 (角川選書)』
・『古代東アジアの女帝 (岩波新書)』
・『持統天皇と藤原不比等 (中公文庫)』
・『女帝―古代日本裏面史』
・『女帝の古代史 (講談社現代新書)』
・雑誌記事『女系図で見る日本争乱史-第三回・壬申の乱 持統天皇の革新性-』
(大塚ひかり 記・新潮社「波」より)