明治政府は様々な欧米の制度を取り入れました。明治政府はフランスの学制にならって近代的学校教育制度を取り入れました。今回は学制を取り入れた経緯と現在の学校制度に至るまでの過程について取り上げます。
江戸時代までの学制とは?
江戸時代の学校といえば藩校が挙げられます。藩校といえば萩の明倫館や水戸の弘道館が有名ですが、藩校は藩に仕えている武士の子弟のみ通うことができました。
藩校に通うことができなかった人々はどのようにして勉強したのでしょうか。この記事の読者の中には寺子屋が思いつくかもしれません。寺子屋は学校と異なり、義務教育ではありません。お寺の住職など近所の人々がボランティアで字や算数を教えていました。
江戸時代の人々は世界と比べても識字率が高いと言われていますが、手紙のやりとりや文字を書く習慣がある地域とそうでない地域との格差があったという説もあります。
明治政府の教育改革とは?
明治政府による国民皆学の狙いはどこにあるのでしょうか。江戸時代の識字率は世界的に比べると高かったと言われていますが、識字率の低い地域もありました。
戦前、20歳以上の男子に兵役義務が課せられました。兵役の際、訓練のマニュアルを読み理解する能力やコミュニケーション能力が求められます。識字率が低いと支障が出るため、全国で一定の識字率を保つために義務教育を導入したと考えられます。戦前の義務教育は1872年に創設された小学校のみでした。1886年の小学校令で義務教育は4年と定められましたが、1907年に6年に延長されています。戦後も小学校は6年と定められています。
明治初期、学制が定められると人々は一揆を起こしました。学制に反対する一揆のことを学制反対一揆といいます。反対した理由として人手が取られることが考えられます。
戦前の中学校
1886年の中学校令により中学校が創設されました。戦前の中学校は高等2年と尋常5年で構成されていました。1894年、高等2年は高等学校となり、尋常5年は中学校(旧制中学)に変わりました。1947年から中学校3年と高等学校3年に変更されています。なお、戦前は小学校6年間が義務教育でしたが、小学校6年間と中学校3年間が義務教育となっています。
戦前の大学
1877年に東京開成学校と東京医学校を統合して国立大学としての東京大学が創設されました。
1886年に東京帝国大学と改称しています。
1886年の帝国大学令により、東京大学だけでなく、
北海道大学・東北大学・名古屋大学・京都大学・大阪大学・九州大学も帝国大学となりました。
現在でも東京帝国大学を含むこれらの国立大学を旧帝国大学という言い方をしています。
帝国大学だけでなく私立大学も創設されました。
代表的な大学として、新島襄の同志社大学や大隈重信の東京専門学校(現、早稲田大学)などが挙げられます。
他に、学校の教師を養成する師範学校も創設されました。
現在は教育大学として残っています。
戦前は女子への教育も盛んに行われていました。
津田塾大学などの女子大や女性の学校の教師を養成する女子師範学校も創設されました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は明治政府の教育改革である学制について取り上げました。読者の中には女子への教育が盛んだったと聞いて、男尊女卑という印象を持っている人にとって意外だと感じる人がいるかもしれません。戦前に創設された女子大について注目したいと思います。
この記事では学制以前から戦前の学制について取り上げました。記事でも取り上げていますが、戦後になると学制が改正され、義務教育が小学校6年間から小学校6年間と中学校3年間の合計9年間に変わりました。教室の雰囲気も変わろうとしています。教師のいうことを生徒が静かに聞くという授業形態から、生徒が意見を積極的に発言するアクティブラーニングに変わりつつあります。今後の学校の授業形態に注目したいと思います。
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