この記事では来島又兵衛の遊撃隊と禁門の変の戦いについて取り上げます。『来島又兵衛の豪傑ぶりと、その人間の魅力に迫る』では、来島の人間としての魅力を中心に取り上げましたが、この記事では遊撃隊の結成に至る経緯や来島の銅像について取り上げます。
結成!遊撃隊!
1863年、高杉晋作が身分を問わない奇兵隊を創設しました。奇兵隊に触発される形で、来島又兵衛は遊撃隊を結成します。遊撃隊は町人・農民・労使らで組織されました。この遊撃隊の中には、池内蔵太や中島信行ら土佐藩を脱藩した者がいます。他に、天誅組だった上田宗児らが加わっています。
天誅組とは尊王攘夷派で構成された集団で、大和で挙兵しますが、幕府によって壊滅させられました。遊撃隊は1864年の禁門の変で先鋒として参戦し、総督だった来島又兵衛が激戦を繰り広げたことで有名になりました。来島が薩摩藩士に狙撃され、死亡しました。来島の死後は石川小五郎が隊を引き継ぎ総督となります。
1865年、長州藩は奇兵隊や遊撃隊など諸隊を整理統合します。この時、遊撃隊は藩の正規軍として公認されることになり、藩から給料と武器弾薬が支給されました。1866年に第二次長州征伐で、芸州口において幕府軍と戦い、幕府軍に勝ちます。幕府が大政奉還すると、戊辰戦争で倒幕軍の一隊として活躍します。戊辰戦争が終結すると、明治新政府での待遇に不満を募らせ、反乱を起こします。200名を超える隊士が参加し、反乱の中心となりますが、鎮圧されました。
「この期に及んで!」
1863年の八月一八日の政変で京を追われた長州藩は、翌1864年に失地回復のために兵を率いて上洛します。この出来事を禁門の変(蛤御門の変)といいます。禁門の変の最後の軍議が、1ヶ月前の7月17日にありました。来島は久坂玄瑞らに対して「準備は整ったか」と尋ねましたが、誰も答えません。久坂らは長州からの主力部隊9000が来るのを待つべきだと主張しますが、来島は「この期に及んで!」と怒鳴り、遊撃隊600を率いて蛤御門に向かいました。
壮絶!その最後
『来島又兵衛の豪傑ぶりと、その人間の魅力に迫る』によれば、来島又兵衛は風折烏帽子に先祖伝来の甲冑を着込んでいました。自ら遊撃隊600名の兵を率いて蛤御門に向かいましたが、薩摩士の川路利良の狙撃で胸を撃ちぬかれました。結果、来島が率いる遊撃隊は会津藩を追い詰めますが、幕府軍や薩摩藩に追い詰められました。来島は狙撃され、介錯を甥に頼み、自害しました。享年48でした。
来島又兵衛の銅像を見に行こう
来島又兵衛の銅像は山口県美祢市の最南端の集落厚保にあります。来島又兵衛の生家は現在の山陽小野田市にありましたが、来島家の婿養子となったため美祢市に銅像があります。この銅像には来島と井上馨の顕彰碑があります。この顕彰碑には来島と井上馨との関係が書かれています。『来島又兵衛の豪傑ぶりと、その人間の魅力に迫る』で取り上げたお金に関することではありません。
井上馨は、第一次長州征討後に椋梨藤太に襲われました。この時、井上は瀕死の重傷を負いましたが、奇跡的に回復しました。来島の銅像の碑文によれば、奇跡的に動けるほどまで回復したときに、井上の妹が来島の息子に嫁いだ関係で、養生していたことが書かれています。この碑文のタイトルは「世外候養痍隠晦之處」で、傷を癒すために姿を隠した場所として伝えられています。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は来島又兵衛の遊撃隊の結成と禁門の変での最後を中心に取り上げました。後半では、来島又兵衛の銅像を取り上げ、どのようにして伝えられているか紹介しました。来島又兵衛といえば、「この期に及んで!」という台詞で有名です。大河ドラマ『西郷どん』での来島又兵衛に注目したいと思います。
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