東岩倉の戦いで勝利を収めて勢いづいた西軍は、1467年10月3日、上京を攻めました。このとき先陣をきったのは、畠山家お家騒動の張本人、畠山義就と細川勝元とは対立関係にあった守護大名の大内政弘でした。他にも、一色義直や朝倉孝景が西軍に合流し、西軍は豪勢なメンバーが揃いました。
一色義直は将軍足利義政の側近であり、朝倉孝景は貴族からは「天下の極悪人」と称されながらも、当時としては珍しく合理的な判断が下せる武将であり、味方の武士からは慕われていました。
死傷者がたくさん出た相国寺の戦い
相国寺は、将軍家である足利家ゆかりのお寺です。しかし、東軍のいた相国寺は、西軍によって焼き討ちされてしまいました。一説には、西軍に通じていた相国寺の僧侶が寺に火をかけたとも伝えられています。東軍は追い詰められますが、畠山政長は反撃に出ます。
一色義直の軍を急襲し、相国寺を奪還したのです。しかし、西軍も黙ってはいません。「天下の極悪人」朝倉孝景が再び相国寺を占拠、そして一旦休戦となりました。この戦いでは死傷者がたくさん出てしまいました。長引く応仁の乱によって、戦っている武士たちもだんだん精神的にも疲弊してしまったようです。
その頃、将軍足利義政は…?
さて、応仁の乱でもっとも激しい戦いであった相国寺の戦いのとき、将軍足利義政はどうしていたのでしょうか?
実は、このとき義政は相国寺のすぐとなりにあった室町第で酒を飲んでいたそうです。最終的には東軍寄りの態度を示しましたが、ほとんどどっちつかずで、あいまいな態度を取り続けていた義政は、いったいどのような心境だったのでしょう。後世から見ると、はっきりしない態度を取っているから周りになめられ、畠山義就や山名宗全に通達を無視されてしまうのだと考えられますが、
当時の義政からすれば「将軍の自分が何を言ったってどうせ聞いてくれないのだから、意味がない」と思い、諦めきっていたのかもしれません。義政は応仁の乱の最中、大量の酒を飲んでいたことで知られています。慈照寺銀閣を建立するなど、文化面では優れた功績を残しましたが、政治家として守護大名や各地の武士をまとめるということは、義政には向いていなかったのかもしれません。
相国寺の戦い以降、京都市内での戦は下火に…そして戦国時代へと突入!
結果としては西軍の勝利で終わった相国寺の戦いでしたが、東軍・西軍ともに多数を死傷者を出してしまいました。そして相国寺の戦い以降は京都では戦はおこなわれず、戦いの場は地方へと移っていったのです。応仁の乱は、もともとは畠山家のお家騒動からはじまりました。しかし、次第に多くの守護大名や有力な武士を巻き込み、誰にも止められない規模の戦いとなったのです。
戦はずるずると続いていましたが、西軍の総大将である山名宗全が亡くなり、その2か月後に東軍の総大将である細川勝元が亡くなると、事態は一気に講和に向けて動き出します。
応仁の乱ライター星野まなかの独り言
結果として、東軍が勝ったのか西軍が勝ったのかよく分からない、あいまいな終わり方となってしまいました。しかし、この戦いで将軍家の権威は失墜し、力のあるものが生き残ることができるという戦国時代へと世の中は移り変わっていくのです。戦国時代に活躍した戦国大名は、守護大名から成り上がった者もいれば、主君を倒して自らの力でのし上がった者もいます。
そのため、従来の形式的なものの考え方に捉われることなく、戦によって家臣たちをまとめていく者が多くいました。乱の張本人である畠山義就は身分の低い母親から生まれ、決して家督を継ぐ立場ではありませんでした。しかし、他の武士たちの協力を得て応仁の乱で自ら先陣をきって戦い、事実上河内と大和の支配者となった義就は、日本で最初の戦国大名であるといえるのかもしれません。
kawa註 畠山義就は戦国大名のパイオニア
畠山義就は、将軍足利義政と蜜月の時もありましたが、義政が東軍の細川氏の庇護にあった関係もあり長い間朝敵の扱いでした。当然、彼が武力で奪い取った河内や大和の領地は違法行為で得た土地として幕府は支配を認めず返還を命じましたが義就は戦の才能をフルに発揮して、討伐軍を破り、自力で領地を保全していました。そうです、畠山義就は幕府のお墨付きなしに自力で領土を守り、その支配に必ずしも服さないという意味においては、幕府に関係なく武力で領地を保全した戦国大名のパイオニアだったのですね。
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