島津斉彬は藩主として西洋の技術を取り入れていましたが、病気で急死しました。斉彬は遺言において島津久光の忠義を次の藩主とし、久光は藩主ではなく、国父として後見役になりましたが、薩摩藩の実権を握ります。この記事では、国父になったときの久光と明治維新以降の久光について取り上げます。
藩主になりたくてもなれなかった島津久光
島津斉彬が薩摩藩主になる前、お由羅騒動という薩摩藩を二分する事件がありました。斉彬の子が13人いましたが、そのうち11人が幼くして死亡していて呪詛人形があったことが分かりました。島津斉興の側室・お由羅の仕業であるとして、暗殺しようとした計画が露見し、関わった藩士が処分されました。このことをお由羅騒動と言います。
お由羅騒動の結果、斉彬派の支持勢力が拡大し、13代目将軍徳川家慶から島津斉興は隠居するように言い渡され、11代目を斉彬に譲ることになりました。
『島津斉彬の遺言に学ぶ相続トラブルを回避する方法』によれば、薩摩藩主になった斉彬がお由羅騒動を二度と起こさないための対策を講じます。なお、当時の斉彬の子供・哲丸は幼少です。争いを起こさないために、島津久光の子・忠義を後継者とし、久光を国父として後見人とすることを決め、斉彬の遺言として残しました。
島津久光は側室お由羅の子であり、藩主になる可能性がほとんどありませんでした。薩摩藩だけでなく、どの藩の藩主の二男・三男以下も部屋住みと呼ばれ、待遇が非常に悪かったです。部屋住みの間、井伊直弼のように学問に力を入れて、実績を残した人もいます。
島津久光も部屋住みの間に学問に力を入れます。藩主にはなれませんでしたが、その実力を薩摩藩の国父になってから発揮します。
西郷隆盛を島流しにした島津久光
島津久光と言えば、薩摩藩士の西郷隆盛との仲が悪かったことで有名です。仲が悪くなったきっかけは1862年に公武合体を推進するための上洛を計画していたときであると言われています。西郷隆盛は安政の大獄から逃れるために流罪となり、奄美大島に潜伏していました。当時、西郷は島で知り合った女性と結婚していて子供もいました。
西郷は薩摩に呼び戻されますが、久光に計画の甘さを指摘し「田舎者」という言葉まで言いました。久光にとって屈辱だったので仲が悪くなりました。海江田信義は西郷が大阪にいることを久光に漏らしました。このことにより、西郷は沖永良部島に島流しになりました。島流しから2年後、大久保利通や小松帯刀らの嘆願により西郷は再び薩摩藩に召還されます。
西郷が再度召還されたことに対して、久光は逆上したと言われています。田舎者と酷評されたことが、西郷と久光の不和だった要因となっていると考えられます。
幕府を混乱させる島津久光
久光は国父という立場で京に上洛することに成功しました。久光が上洛していた頃、一部の薩摩藩士(精忠組)が京の街を焼き払うという事件を改革していることが分かりました。久光は朝廷からの命令により精忠組を取り締まります。薩摩藩士で同士討ちさせた事件のことを寺田屋事件と言います。寺田屋事件により朝廷内での立場が良くなりました。朝廷の信頼を得た久光は幕政に関与しようとします。
一方で、久光は気性の荒い性格でした。気性の荒い性格が原因で幕府を混乱させました。その混乱させた事件ではイギリス人を殺傷した生麦事件が有名です。
倒幕、明治維新。歴史の転換点で島津久光はどう振る舞った?
倒幕後と明治維新後の島津久光は歴史の表舞台からでることがほとんどないため、ほとんど知られていません。ここでは倒幕後の島津久光について取り上げます。明治維新後も頑固な性格は続き、明治新政府の政策に不満を募らせます。廃藩置県が断行されたとき、一晩中鹿児島の久光の自邸で花火を打ち上げ続けるという変わった抗議行動を起こしました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
久光は藩主ではなく国父という立場で実権を握りました。読者の中には久光が斉彬の跡を継いだ藩主という印象を受けるかもしれません。久光の性格や生い立ちから薩摩藩の実権を握る動機として駆り立てるものがあったと考えられます。
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