永倉新八は新選組の中で剣術の名人として知られています。また、新撰組の隊士の中で明治以降も生き残った数少ない隊士の1人です。今回は永倉新八について取り上げます。
永倉新八とは?
永倉新八は1839年に松前藩に生まれました。松前藩を脱藩後、江戸で後に新撰組隊士となる島田魁と出会い、その後に近藤勇の道場試衛館の食客となりました。江戸に滞在しているとき、新選組の前身である壬生浪士組に加わります。新選組では二番隊組長と撃剣師範を務めました。新選組九番隊組長を務めた鈴木三樹三郎は剣術が下手だったので、永倉が指導していたといわれています。
1864年の池田屋事件では、近藤勇や沖田総司らとともに池田屋に突入しました。池田屋事件では、沖田総司が病気で倒れたり、藤堂平助が重傷で離脱したりするなど壮絶な戦いとなりました。永倉は傷を負いながらも最後まで戦いました。
油小路事件では、永倉は原田左之助らとともに伊東甲子太郎ら御陵衛士の暗殺に関わります。1868年の鳥羽伏見の戦いにも加わりました。鳥羽伏見の戦いで敗退後、江戸に戻ると近藤勇と袂を分かち、北関東で明治新政府軍に抵抗し続けました。東北地方で会津藩の降伏を知ると江戸に帰還し、脱藩した松前藩への復帰が認められました。
永倉新八は杉村家の養子となり、杉村義衛と改名します。新選組での剣術の腕が買われ、樺戸集治監で剣術師範を務め、看守に剣術の指導をしました。樺戸集治監を退職してから道場や大学などで剣術に指導をしました。1915年、永倉は小樽で死亡しました。
永倉新八の剣術の逸話
永倉新八の愛刀は「播州手柄山氏繁」でした。この刀の特徴は、刃長約70センチで、江戸後期の1801年頃に造られました。池田屋事件では、切っ先の波紋部分が折れてしまいました。
永倉新八と斉藤一―剣術の腕はどちらが上?―
永倉新八は撃剣師範を務めたので剣術の腕はあったと思われます。実戦では、池田屋事件で、藤堂平助らが怪我で隊士が離脱する中、近藤勇とともに最後まで戦い抜きました。
斉藤一は新選組で永倉と同じ撃剣師範を務めましたが、実戦で永倉より上かもしれません。新選組の中で最も多くの人を斬ったとされ、かすり傷ひとつも負わなかったといわれています。新選組の中でスパイや暗殺といった特殊な任務もこなしていました。実戦や特殊な任務では永倉よりも上かもしれません。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は永倉新八について取り上げました。ここでは永倉新八の逸話について取り上げます。逸話として、晩年に映画館を出てヤクザに絡まれると眼光と一喝だけでヤクザを退散させたことがあります。
永倉の逸話の中で、酒に酔うとふんどし1枚になって体の戦傷を自分の子孫に自慢していたといわれています。紙に傷の記録を残しました。紙に書かれた傷の中には池田屋事件や禁門の変など有名な事件で負った傷があります。有名な事件以外では、鉄砲の撃ち合いで銃弾が当たった跡、大阪力士乱闘事件で新撰組隊士の島田魁の脇差しで負った腕の傷、酒に酔ったときに負った目の下の傷があります。永倉新八の墓は小樽市中央墓地、札幌市里塚霊園、東京都北区滝野川の寿徳寺境外墓地の3箇所があります。小樽市中央墓地へは小樽駅からバスで移動することができます。この墓は杉村家の墓で普段は立ち入ることができないようです。
札幌市里塚霊園は大谷地神社にあります。アクセスは札幌市営地下鉄福住駅よりバスに乗って17分の場所にあります。東京都北区滝野川にある寿徳寺は新撰組隊士の供養塔で有名です。毎年4月に新撰組隊士の供養祭が行われています。アクセスは都営三田線新板橋駅または西巣鴨駅より徒歩8分、JR埼京線・板橋駅東口より徒歩10分の場所にあります。
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