今回は西郷隆盛と桂小五郎(後の木戸孝允)との関係について取り上げます。具体的には、西郷と桂が最初にあった頃から明治政府内で対立して戦うまでの過程を取り上げます。
禁門の変 薩摩藩と長州藩は対立関係に
1863年8月18日に朝廷内でクーデターが起こりました。このクーデターのことを八月十八日の政変と言います。このクーデターによって、公武合体派が長州藩と三条実美ら尊王攘夷派で急進派の公卿を京から追放しました。八月十八日の政変に対する報復として、長州藩の急進派が池田屋事件を契機に京に入り、薩摩藩・桑名藩・会津藩の藩兵と京都御所内外で武力衝突します。この長州藩が武力衝突を起こした事件のことを禁門の変(または蛤御門の変)と言います。
薩長同盟 西郷隆盛と桂小五郎の出会い
禁門の変により薩摩藩と長州藩は対立関係にありました。長州藩は朝敵となり、幕府は勅命により第一次長州征伐で長州を攻めました。西郷隆盛が単独で長州藩に乗り込んで交渉したことによって、長州藩は恭順の態度を示し、戦争に至りませんでした。西郷隆盛の交渉能力は注目されるようになりましたが、薩摩藩内でも幕府に対して強硬な態度を示すべきだと主張するようになりました。
このような状況のとき、土佐藩を脱藩した坂本龍馬から桂小五郎に会ってみないかと打診されます。これが西郷と桂の最初の出会いだと言われています。最初、西郷と桂があったとき、禁門の変のわだかまりがあり、交渉がうまくいきませんでしたが、坂本龍馬が仲立ちをしたことによって薩長同盟が成立しました。
明治政府内での対立 征韓論vs岩倉使節団
薩長が連携して江戸幕府を倒し、明治政府を樹立することができました。明治政府ができると、西郷隆盛は海外に行かず、国内で政治を行います。一方で、木戸孝允(桂小五郎)は岩倉使節団に加わり、欧米の視察に出かけます。木戸ら岩倉使節団が帰国すると明治政府内で西郷らと対立します。
西郷隆盛ら征韓論派と木戸孝允ら岩倉使節団の主張の違いは次の通りです。『西郷隆盛の征韓論とはどんなもの?』によれば、征韓論派は李氏朝鮮との国交を武力で開き、勢力を伸ばすべきだと主張しました。一方で、木戸孝允ら岩倉使節団は、視察したヨーロッパと比べると、日本の政治体制は脆弱であり、国内政治を整えることを優先させなければならないと主張します。明治政府内で主張は対立しましたが、征韓論は退けられ、征韓論を主張した政治家は明治政府を去りました。
不平士族による反乱へ
明治政府を去った政治家の中には不平士族に担ぎ出されて反乱を起こした者がいました。1874年の江藤新平による佐賀の乱から始まり、1876年の萩の乱・神風連の乱・秋月の乱と続きます。1877年、西郷隆盛は自ら開いた私塾の生徒と不平士族を率いて反乱を起こしました。この反乱を西南戦争と言います。
西南戦争で、西郷隆盛は、自らの敵として木戸孝允と戦うことになりました。結果、西郷隆盛は西南戦争で敗れて自害しました。西南戦争でもって不平士族による反乱は終わりました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は西郷隆盛と木戸孝允との関係を中心に西南戦争までの過程を取り上げました。坂本龍馬の仲立ちで、西郷隆盛と桂小五郎(当時、後の木戸孝允)は初めて会うことができました。禁門の変で西郷と桂は対立関係の状態でしたが、交渉の結果薩長同盟が成立します。
新政府軍と旧幕府軍との戦いでは、西郷と桂は味方同士で戦いますが、明治政府内ではお互いに敵として戦いました。西郷隆盛と木戸孝允が対立しないで、西郷が明治政府内に留まっていれば日本の政治は変わっていたのかもしれません。
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