広告

[幕末の対決]西郷どんと徳川慶喜、ライバルの真相

2024年3月12日


 

徳川慶喜

 

今回は西郷隆盛(さいごうたかもり)徳川慶喜(とくがわよしのぶ)との関係に注目します。西郷は島津斉彬(しまづなりあきら)のもとで14代将軍に徳川慶喜を推すように工作していました。14代将軍後継者問題が起こっていた頃に西郷と徳川慶喜は会っていたと考えられます。この記事では、最初に禁門の変の頃の関係から取り上げます。次に、西郷が幕府と戦うようになってからの2人の関係に注目します。最後に、明治維新後の2人について取り上げます。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



禁門の変から長州征伐まで

西郷隆盛

 

1864年の禁門の変で、西郷隆盛は幕府側について徳川慶喜とともに長州藩と戦いました。禁門の変を理由に幕府は朝廷から長州征伐の勅命を受けて、長州藩を攻めます。この時、西郷隆盛は単独で長州藩に乗り込み、説得しました。長州藩は恭順の態度をとったことで長州征伐を避けることができました。この長州征伐を第一次長州征伐と言います。

 

高杉晋作が創設した奇兵隊

 

1865年になると、高杉晋作(たかすぎしんさく)らが長州藩の実権を握ります。高杉ら長州藩が倒幕の動きを強めたため、幕府が長州征伐の勅許を得て再び長州藩を攻めます。この戦争を第二次長州征伐と言います。第二次長州征伐で幕府軍は敗戦を重ねました、14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)が大阪城で病死したことによりこの戦争は停戦状態になりました。この第二次長州征伐で、薩摩藩は兵を出していません。幕府が命令を出しているにもかかわらず、薩摩藩は兵を出さなかったため、薩摩藩と幕府は対立します

 

 

 

大政奉還から戊辰戦争まで

大政奉還した徳川慶喜

 

15代将軍徳川慶喜は朝廷に政権を返上する大政奉還を行いました。大政奉還の狙いは直前に出された討幕の密勅の大義名分をなくすために政権を返上したと言われています。大政奉還後、1867年に王政復古の大号令が出されます。この大号令により、天皇中心の政府樹立が宣言されました。また、摂政・関白の廃止、幕府の廃絶、官職として総裁・議定・参与の三職の設置が決まりました。

 

京都御所

 

王政復古の大号令が出された後も徳川慶喜には朝廷内での官職がありましたが、小御所会議(1867年12月)において、徳川慶喜の辞官納地が決まりました。辞官納地に反発した旧幕府軍が挙兵し、戦争に突入します。この旧幕府軍と明治新政府軍による一連の戦争のことを戊辰戦争と言います。1868年1月の鳥羽伏見の戦いから始まり、1869年5月の五稜郭の戦いまで続きます。

 

徳川慶喜

 

鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜は江戸城に逃亡し、恭順の態度をとります。一方で、西郷隆盛は新政府軍として勝海舟(かつかいしゅう)と江戸城の無血開城の交渉を担当しました。

 

明治維新後の西郷隆盛と徳川慶喜

明治維新後の徳川慶喜

 

戊辰戦争では西郷隆盛は新政府軍として戦いを優位に進めますが、徳川慶喜は恭順の態度をとり、謹慎生活を送ります。この時点で2人の立場は歴然としています。明治維新後になると2人の立場は逆転します。徳川慶喜は謹慎生活が解かれ、静岡で隠居生活を送ります。静岡での隠居生活は趣味三昧だったと言われています。その後、静岡から東京に移動して貴族院の議員になったこともあります。

 

一方で、西郷隆盛は明治六年の政変で政府を去り、不平士族による最後の反乱である西南戦争を起こします。西南戦争で西郷は賊軍の将となりますが、恩赦によって賊軍の将でなくなりました。

 

 

 

幕末ライターオフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

今回は西郷隆盛と徳川慶喜との関係について取り上げました。西郷隆盛は下級武士で、徳川慶喜は将軍という立場が異なりますが、2人とも国賊となりましたが、恩赦で国賊でなくなったことが分かりました。西郷隆盛と徳川慶喜の2人は新政府軍と幕府という全く立場が異なるため共通点がないと思われがちですが、意外な形で共通点があることが分かります。今回は政治的出来事を中心に共通点を探しましたが、西郷隆盛と徳川慶喜の趣味における共通点を探してみたいと思います。

 

▼こちらもどうぞ

大久保利通はどんな性格をしていたの?身長や西郷隆盛との関係性

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
オフィス樋口

オフィス樋口

自己紹介:フリーランスで予備校の講師をしています。 歴史が好きで、予備校では主に日本史を指導しています。 センター試験の点数を40点台から80点台に伸ばした実績があります。 好きな歴史人物:徳川慶喜(理由:多趣味であることが共通しているから)

-外部配信