五代友厚は北海道開拓使官有物払下げ事件で有名になっていますが、連続テレビ小説『あさが来た』でディーンフジオカが演じてから印象がガラッと変わったと感じた人が多いと思います。商売が上手な人や大阪経済を立て直した人という印象を受ける人が多くなったと思います。
この記事では、明治維新で衰退した大阪経済と大阪経済を立て直した五代友厚について取り上げます。
この記事の目次
商人の台所・大阪が衰退した理由
『五代友厚は商人の町大阪再生の立役者だった!』によれば、江戸時代から大阪の商人は銀で取引をしていましたが、銀での商取引が廃止されました。大阪商人は大名に貸し付けを行っていましたが、大名が廃藩置県によってなくなったため返済がなくなり、両替商の資産が消失しました。このことが大阪経済の衰退した原因となりました。
明治新政府から派遣された五代
明治政府は大阪経済が衰退したことを憂慮していました。政府は経済に精通している五代友厚を大阪に派遣することを決めました。五代が大阪経済再生のために大阪商法会議所(現、大阪商工会議所)を設立しました。
大阪商法会議所設立・あきんどの力を再結集させた五代
五代友厚は大阪経済再生のために大阪商法会議所を設立しました。設立の目的は、大阪の実業家が相互扶助によって自己の利益を増すとともに大阪の繁栄を軸に国富を増強させることでした。大阪商法会議所の創立委員は11名で、中には鴻池善右衛門や三井元之助(後の三井財閥)がいました。
綿花に目を付けた五代・日本版産業革命を大阪から起こす
五代友厚は大阪に派遣される前、綿花の取引で利益を上げたことがありました。綿花の取引で得た利益を紡績業につぎ込みます。NHK連続テレビ小説『あさが来た』のモデルである広岡浅子の夫・信五郎は日本綿花(現・双日)発起人の一人です。日本綿花は大阪商人ら25名によって設立されました。設立したメンバーの多くは大阪商法会議所(現、大阪商工会議所)の会員となり、大阪の経済発展に尽力しました。
大阪商工会議所の会員に最初に登録された企業はどこでしょうか。大阪商法会議所の設立された翌年の1892年に日本綿花が設立されました。日本綿花は後にニチメンに名前を変えて、現在は双日という名前になっています。日本綿花から現在の双日まで大阪商工会議所の会員番号は1番のままです。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
この記事では大阪経済の基礎を築いた五代友厚について取り上げました。五代友厚は連続テレビ小説『あさが来た』で注目されるようになりましたが、『あさが来た』放送前まで、日本史の授業で北海道開拓使官有物払下げ事件の人物として勉強した人がほとんどだと思います。
なぜ、五代友厚はあまり有名にならなかったのか。五代は大阪商法会議所の初代会頭になりましたが、わざと頭取や副頭取になりませんでした。五代は薩摩藩士時代に長崎で外国人の商人グラバーのもとに出入りしていたことで、経済を学んだと言われていますが、商法会議所では裏方に徹したことが挙げられます。五代が財閥を作らなかったことも有名にならなかった要因になっていると考えられます。大阪経済は五代の尽力により紡績業中心となりました。
日本綿花(現、双日)以外で、関西発祥の紡績業については渋沢栄一が設立した大阪紡績会社(現、東洋紡)や尼崎紡績(現、ユニチカ)などが挙げられます。大阪経済が紡績業で再興できるようになると、全国に紡績会社が設立されました。機械による綿糸生産が盛んになったことに伴い、
国内で生産している綿糸が輸入綿糸の量を上回るまでになりました。五代友厚について経済再生以外の功績について、今後注目したいと思います。
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