大奥はどのような組織だったのか取り上げます。『大奥の規模はどの位あったの?』では、3代将軍徳川家光のとき、家光に跡取りができないことを心配した春日局が跡取りを作るための女性だけの組織にしました。これが現在知られている大奥となっています。
大奥の経費は幕府財政の中でほとんどを占めていたことがあり、幕政改革で大奥に倹約を命じた老中は嫌われて失脚したケースがありました。男子禁制の大奥ですが、政治に口を挟むようになりました。幕末の大奥では13代将軍徳川家定の正室の篤姫の人気があります。篤姫が大奥にいたとき、どのような役割を担っていたのでしょうか。
この記事では、最初に武家の女性の役割と篤姫が家定の死後大奥で果たした役割について取り上げます。後半で現代の家庭での女性の役割について取り上げます。
武家の女の役割って、どういったものだった?
戦国時代において武家の女性の結婚は政略結婚でした。同盟の証として嫁入りするため、恋愛結婚とは異なり、亭主となる男がどんな人間か分かりません。挙式の当日に相手の男の顔が分かります。また、人質として嫁入りするため、実家と嫁ぎ先が離反すると、自分だけでなく子供、実家の父兄・兄弟の命が危うくなります。武家の女性は外交の手段として使われてきました。
関ケ原の戦いが終わり、江戸幕府になってからも政略結婚は続いていました。2代将軍徳川秀忠の武家諸法度では、幕府に無断で婚姻関係を結ぶことを禁止しました。同盟関係から幕府を倒すことにつながることを恐れたと考えられます。
3代将軍徳川家光の代になると、武家諸法度に参勤交代が加えられます。各藩は違反行為ができないように、正妻とその家族は人質として江戸住まいとなりました。
篤姫が歴史上で果たした役割とは
篤姫は島津斉彬に13代将軍徳川家定の後継者として徳川慶喜を指名するように働きかけることを命令され、大奥に入りました。篤姫は大奥で徳川慶喜を指名するよう働きかけましたが、結果失敗に終わり、14代将軍は徳川家茂になりました。徳川家定の死後、実家の薩摩藩から帰国の申し出がありましたが篤姫は断りました。14代将軍徳川家茂の正室和宮と仲が良くなったことが要因として考えられています。
大政奉還後、旧幕府軍と新政府軍との間で戊辰戦争が起こりました。鳥羽伏見の戦い後、新政府軍が江戸城に迫っていました。篤姫は江戸城での戦争を避けるために薩摩藩の西郷隆盛に手紙を送りました。西郷は篤姫の手紙を読み、勝海舟と交渉します。
西郷と勝との交渉の結果、江戸は戦争にならず、江戸城は無血開城となりました。江戸城無血開城後、篤姫は存続が決まった徳川宗家で、幼い家達の養育に当たりました。徳川家達は華族の身分で、貴族院議長を務めました。
未亡人として家を仕切ること
徳川家定の死後、篤姫は江戸城の大奥でどのように過ごしていたのでしょうか。大奥での篤姫について、お酒のエピソードが有名です。篤姫は薩摩藩出身で、お酒が強かったことで有名です。お酒は一人で飲まないで、御中臈と一緒に酒を飲んでいました。一番上の正室である篤姫がお酌をしていましたが、当時大奥では異例のことで女中が驚いていました。お酌をすることで、江戸城無血開城後の女中の就職や結婚の世話など面倒見の良さが出たのかもしれません。
現在における女性の家庭の役割とは
かつて女性の役割は専業主婦として亭主が留守になった家庭を守り、家事と育児に専念していました。現在、女性が社会進出しているため、家庭にいなくなりました。現在の女性の家庭の役割が変わりつつあります。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
篤姫の果たした大奥での役割について取り上げました。大奥は正室や側室になると外出できなくなるため、常駐して将軍を支え、大奥を取り仕切っていました。かつて女性の家庭の役割は専業主婦として亭主が留守になった家庭を守り、家事と育児に専念していました。現在、女性が社会進出をしているため家庭にいなっていることから、歴史上の女性を通して家庭の役割を考え直す必要があるかもしれません。
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