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篤姫が担った[重大任務]将軍正室の知られざる役割

2024年5月16日


 

江戸城

 

 

大奥(おおおく)はどのような組織だったのか取り上げます。『大奥の規模はどの位あったの?』では、3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)のとき、家光に跡取りができないことを心配した春日局(かすがのつぼね)が跡取りを作るための女性だけの組織にしました。これが現在知られている大奥となっています。

 

煕子(明智光秀の妻)女性

 

大奥の経費は幕府財政の中でほとんどを占めていたことがあり、幕政改革で大奥に倹約を命じた老中(ろうじゅう)は嫌われて失脚したケースがありました。男子禁制の大奥ですが、政治に口を挟むようになりました。幕末の大奥では13代将軍徳川家定(とくがわいえさだ)の正室の篤姫(あつひめ)の人気があります。篤姫が大奥にいたとき、どのような役割を担っていたのでしょうか。

 

幕末_幾島(女性)

 

この記事では、最初に武家の女性の役割と篤姫が家定の死後大奥で果たした役割について取り上げます。後半で現代の家庭での女性の役割について取り上げます。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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武家の女の役割って、どういったものだった?

 

篤姫

 

戦国時代において武家の女性の結婚は政略結婚でした。同盟の証として嫁入りするため、恋愛結婚とは異なり、亭主となる男がどんな人間か分かりません。挙式の当日に相手の男の顔が分かります。また、人質として嫁入りするため、実家と嫁ぎ先が離反すると、自分だけでなく子供、実家の父兄・兄弟の命が危うくなります。武家の女性は外交の手段として使われてきました。

 

徳川幕府

 

 

関ケ原の戦いが終わり、江戸幕府になってからも政略結婚は続いていました。2代将軍徳川秀忠(とくがわひでただ)武家諸法度(ぶけしょはっと)では、幕府に無断で婚姻関係を結ぶことを禁止しました。同盟関係から幕府を倒すことにつながることを恐れたと考えられます。

 

参勤交代

 

3代将軍徳川家光の代になると、武家諸法度に参勤交代(さんきんこうたい)が加えられます。各藩は違反行為ができないように、正妻とその家族は人質として江戸住まいとなりました。

 

 

 

篤姫が歴史上で果たした役割とは

篤姫と徳川幕府

 

篤姫(あつひめ)島津斉彬(しまづなりあきら)に13代将軍徳川家定の後継者として徳川慶喜(とくがわよしのぶ)を指名するように働きかけることを命令され、大奥に入りました。篤姫は大奥で徳川慶喜を指名するよう働きかけましたが、結果失敗に終わり、14代将軍は徳川家茂(とくがわいえもち)になりました。徳川家定の死後、実家の薩摩藩から帰国の申し出がありましたが篤姫は断りました。14代将軍徳川家茂の正室和宮(かずのみや)と仲が良くなったことが要因として考えられています。

 

大政奉還した徳川慶喜

 

大政奉還(たいせいほうかんご)後、旧幕府軍と新政府軍との間で戊辰戦争(ぼしんせんそう)が起こりました。鳥羽伏見(とばふしみ)の戦い後、新政府軍が江戸城に迫っていました。篤姫は江戸城での戦争を避けるために薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり)に手紙を送りました。西郷は篤姫の手紙を読み、勝海舟(かつかいしゅう)と交渉します。

 

勝海舟

 

西郷と勝との交渉の結果、江戸は戦争にならず、江戸城は無血開城となりました。江戸城無血開城後、篤姫は存続が決まった徳川宗家で、幼い家達(いえさと)の養育に当たりました。徳川家達は華族の身分で、貴族院議長を務めました。

 

 

未亡人として家を仕切ること

篤姫

 

徳川家定の死後、篤姫は江戸城の大奥でどのように過ごしていたのでしょうか。大奥での篤姫について、お酒のエピソードが有名です。篤姫は薩摩藩出身で、お酒が強かったことで有名です。お酒は一人で飲まないで、御中臈(おちゅうろう)と一緒に酒を飲んでいました。一番上の正室である篤姫がお酌をしていましたが、当時大奥では異例のことで女中が驚いていました。お酌をすることで、江戸城無血開城後の女中の就職や結婚の世話など面倒見の良さが出たのかもしれません。

 

 

 

現在における女性の家庭の役割とは

 

かつて女性の役割は専業主婦として亭主が留守になった家庭を守り、家事と育児に専念していました。現在、女性が社会進出しているため、家庭にいなくなりました。現在の女性の家庭の役割が変わりつつあります。

 

 

幕末ライターオフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

篤姫の果たした大奥での役割について取り上げました。大奥は正室や側室になると外出できなくなるため、常駐して将軍を支え、大奥を取り仕切っていました。かつて女性の家庭の役割は専業主婦として亭主が留守になった家庭を守り、家事と育児に専念していました。現在、女性が社会進出をしているため家庭にいなっていることから、歴史上の女性を通して家庭の役割を考え直す必要があるかもしれません。

 

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