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明治政府の暗部![小栗忠順]がなぜ殺されたのか?

2024年5月20日


 

これまでの小栗忠順(おぐりただまさ)について、

 

『小栗忠順にも弱点があった?策におぼれた小栗に訪れた結末とは?』

『小栗忠順は大蔵大臣?幕末に現れた天才の功罪』

『小栗忠順は天才だった?天才であったがゆえに招いた悲劇?』など

 

 

様々な記事において小栗が処刑されたことについて取り上げました。幕政改革の天才で明治維新が小栗の模倣(もほう)であることが明らかにならないようにするために処刑につながったと結論付けていましたが、この記事では本当に小栗を殺す必要があったのか改めて考えたいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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徹底抗戦を求めた小栗

大政奉還した徳川慶喜

 

小栗忠順は天才だった?天才であったがゆえに招いた悲劇?』によれば、大政奉還(たいせいほうかん)後、新政府軍と旧幕府軍との間で鳥羽伏見の戦いが起こりました。この戦いで旧幕府軍は負け、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は恭順策を取りました。一方で、小栗忠順・榎本武揚(えのもとたけあき)らは徹底抗戦を主張しました。

 

新政府軍が箱根に入ったら迎撃し、榎本武揚の艦隊を駿河湾に突入させて相手の後続を砲撃で足止めし、箱根で孤立した相手を殲滅(せんめつ)するという作戦でした。もし、この作戦が実行されていたら新政府軍は殲滅して旧幕府軍は巻き返した可能性があります。徳川慶喜は徹底抗戦の主張を退け、恭順する決意を固めていました。鳥羽伏見(とばふしみ)の戦いで、錦の御旗(みはた)が掲げられたことから、徳川宗家が朝敵(ちょうてき)になることを恐れていたと考えられます。

 

 

 

 

財宝とともに?小栗は栃木に引きこもる

お金

 

小栗忠順は御役御免となり、無位無官となりました。小栗は栃木県に移り住みます。『小栗忠順は大蔵大臣?幕末に現れた天才の功罪』によれば、江戸城の金庫を見た新政府軍は金庫の中が空であることに驚きました。栃木県にいる小栗が埋蔵金を持ち出したと疑い、小栗の逮捕と御用金を探すために栃木県に向かいます。

 

小栗忠順にも弱点があった?策におぼれた小栗に訪れた結末とは?』によれば、大砲一門・鉄砲二十挺および弾薬を運びこみ、600両を投じて居館を新築しました。現地の農民を徴発して訓練していたという記録があります。旧幕府軍の挽回を狙っていたと考えられます。

 

 

小栗を捕らえた新政府軍、そして小栗の最期

 

小栗忠順は栃木県に引きこもっていましたが、新政府軍に見つかり、逮捕されました。幕府の埋蔵金の有無について問い詰めたが、小栗は何も答えなかったため、取り調べがほとんどないまま処刑されました。

 

 

新政府が小栗を恐れていた本当の理由

 

これまでの小栗忠順に関する記事で、

 

『小栗忠順にも弱点があった?策におぼれた小栗に訪れた結末とは?』

『小栗忠順は大蔵大臣?幕末に現れた天才の功罪』

『小栗忠順は天才だった?天才であったがゆえに招いた悲劇?』

 

など様々な記事において小栗が処刑されたことについて取り上げました。処刑された原因として、幕政改革と軍事の天才で生きていると新政府軍が危うくなること、明治維新が小栗の模倣であることが明らかにならないようにするためと結論付けていました。

 

小栗忠順にも弱点があった?策におぼれた小栗に訪れた結末とは?』では、榎本武揚については明治新政府に加わっていることを指摘しました。小栗忠順と榎本武揚の違いは次の点にあると考えられます。

 

小栗はフランスのロッシュの支援を受けていたことからフランスとのパイプがありました。一方で、榎本武揚はロシアとのパイプがありました。新政府軍にとってイギリスの敵であるフランスとつながっている人物を閣内に入れることで、イギリスと対立することを恐れたと考えられます。ロシアとパイプを持っていた榎本武揚についてはロシア大使として明治政府に加わります。榎本は千島列島と樺太の国境が確定していなかったため、領土交渉で樺太千島交換条約を締結するなどロシア外交で活躍します。

 

 

幕末ライターオフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

この記事では小栗忠順は有能であるにもかかわらずなぜ殺されなければならなかったのかという疑問について考えました。新政府軍は明治維新が小栗の模倣であることを恐れたことや軍事力を恐れたから処刑されたと結論付けてきましたが、小栗がフランスとパイプを持っていたことが処刑しなければならない原因になったと考えられます。小栗忠順の処刑の動機について、今後の研究の動向に注目したいと思います。

 

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オフィス樋口

自己紹介:フリーランスで予備校の講師をしています。 歴史が好きで、予備校では主に日本史を指導しています。 センター試験の点数を40点台から80点台に伸ばした実績があります。 好きな歴史人物:徳川慶喜(理由:多趣味であることが共通しているから)

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