伊達宗城の宇和島藩は10万石の小藩でしたが、藩政改革で雄藩として台頭すると幕政に口を挟むようになりました。どのようにして10万石の小藩だった宇和島藩と伊達宗城が幕末の四賢候として台頭したのか。伊達宗城と宇和島藩の藩政改革について取り上げます。
開国派であった伊達宗城
1818年に伊達宗城は生まれました。なかなか跡継ぎができない宇和島藩主伊達宗紀の養子となりました。1844年に養父伊達宗紀の隠居に伴い、宇和島藩の藩主になりました。当時の宇和島藩は殖産興業を中心とした藩政改革を行っていました。
伊達宗城は藩政改革の一環として木蝋の専売化だけでなく、先代伊達宗紀の殖産興業をメインとする藩政改革を発展させます。また、西洋化にも取り組みます。西洋化を成し遂げるために次の人物を招きました。
『伊達宗城の業績はこれだけある!?幕末の四賢候と呼ばれた宗城のすごいところとは?』によれば、伊達宗城は幕府から追われ江戸で潜伏していた高野長英を招き、さらに長州より大村益次郎(村田蔵六)を招いたことで西洋化に着手しました。
身分に限らず能力のあるものを登用した伊達宗城
伊達宗城は蛮社の獄で捕らわれていた高野長英を招きます。高野長英は蘭学者で、幕府が異国船打払令でモリソン号を打ち払った事件を批判した人物です。幕府を批判したことにより幕府に捕らわれました。この出来事を蛮社の獄と言います。伊達宗城は宇和島藩に高野長英を招いて、兵法書など蘭学書の翻訳と宇和島藩の軍の洋式化を任せました。伊達宗城は高野長英が宇和島を去って江戸に戻ると、蘭書が読める人物で大村益次郎を招きます。
『伊達宗城の業績はこれだけある!?幕末の四賢候と呼ばれた宗城のすごいところとは?』によれば、大村はオランダ語を読むことができるという理由で招き、医学・西洋兵学の講義・翻訳を任せていました。
蒸気船を作らせた伊達宗城
『伊達宗城の業績はこれだけある!?幕末の四賢候と呼ばれた宗城のすごいところとは?』によれば、大村益次郎はオランダ語は読めますが蒸気船の技術については素人でした。しかし、宗城は西洋の技術書を読むことができるだろうという理由で、造船に素人である大村に西洋の蒸気船の製造を命じました。
オランダ語が読めるだけで製造を命じていることから、日本人しかも専門外の人たちによって西洋の蒸気船は製造できないと思われていました。しかし、外国人の助言なしで日本人だけで蒸気船を製造することに成功しました。
幕末に宇和島藩あり。伊達宗城が残した功績とは?
伊達宗城の功績として藩政改革で雄藩として台頭したことが挙げられます。日本人だけで西洋の蒸気船を製造したことで次のような影響が出ました。
『伊達宗城の業績はこれだけある!?幕末の四賢候と呼ばれた宗城のすごいところとは?』によれば、蒸気船の製造によって大村益次郎は軍事技術の研究に目覚め、その研究に力を注ぐようになりました。大村は徴兵令の制定に貢献するなど明治政府で日本の軍隊制度の基礎をつくりあげました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は伊達宗城の小藩宇和島藩の藩政改革と西洋化について取り上げました。伊達宗城の宇和島藩時代の功績は高く評価され、『伊達宗城の業績はこれだけある!?幕末の四賢候と呼ばれた宗城のすごいところとは?』によれば、明治新政府に加わってから、鉄道建設に必要な費用をイギリスから借り受ける交渉に成功したり、日清修好条規を結んで中国と対等な関係を樹立したりするなど才能を発揮しました。
意外なことですが、元藩主が明治新政府に加わったのは伊達宗城だけで、他にほとんど事例がありません。今後、幕末に活躍した小藩と明治新政府に加わった意外な人物について注目したいと思います。
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