小松帯刀は若くして薩摩藩の家老に取り立てられた有能な人物でした。同じ頃に活躍した西郷隆盛や大久保利通を超える才能を持っていたと言われていましたが、病気がちだったため、西郷や大久保と比べると歴史の表舞台に出ることが少ないのが特徴として挙げられます。今回は、小松帯刀を悩ませた病気と湯治について取り上げます。
小松帯刀の死因は何だった?肺病?痛風?大腸がん?
小松帯刀は少年の頃から病弱でした。1867年、小松は薩摩兵を率いて御所に向かうよう命じられますが、持病が悪化したため大久保利通が代役として上洛することになりました。
大久保は大政奉還をした徳川慶喜に対して領地返還を求める大演説を行いました。小松は明治維新後に35歳という若さで病死しますが、その死因は何でしょうか。小松の持病は肺結核だったと言われています。当時の日本の医療技術では肺結核の治療に限界があったため海外の医師は渡欧を勧めていましたが、渡欧しないで大阪で死亡しました。
湯治について知ろう
湯治とは温泉地に長期間滞留して特定の疾病の温泉療養を行うことです。現代では、現在では、皮膚病の治療で湯治が行われることが多いと言われています。また、現在の医学では治療困難とされる病気の治癒を期待して湯治を行う人もいます。当初、湯治は権力者など一部の人に限られていました。
戦国時代では、湯治で有名な人物として豊臣秀吉が挙げられます。合戦や任官・家族の他界など人生の節目ごとに有馬温泉で湯治を行っていたことで有名です。安土桃山時代まで湯治は権力者など一部の人に限られていましたが、江戸時代から一般の人の間でも湯治が盛んに行われるようになりました。
薩摩藩士の小松帯刀の場合、病気療養だけでなく、身分に関係なく人々と交流するために湯治を行っていました。
日本初の新婚旅行は小松帯刀?
日本最初の新婚旅行は1866年で、坂本龍馬と妻のおりょうであると言われています。しかし、1856年に新婚旅行として湯治旅行をしていた夫婦がいました。その夫婦とは小松帯刀と妻のお近でした。霧島の栄之尾温泉に湯治旅行に来ていて、日本初の新婚旅行ではないかという見解があります。
小松帯刀のお墓参り!
小松帯刀の墓は園林寺跡にあります。園林寺は小松家の菩提寺で、小松家歴代の墓があります。帯刀の墓は吉利集落を見下ろす最前列にあります。妻おちか(お近)の墓と並んでいます。なお、園林寺は1869年の廃仏毀釈によりほとんどが失われ、現在は廃仏毀釈の被害に遭った仁王像や墓地が残されています。
小松帯刀の墓がある園林寺跡は鹿児島県日置市にあります。鹿児島IC~伊集院IC利用を利用すると、鹿児島市内から車を使うと40分で移動できます。JR伊集院駅から車を使うと20分で行くことができます。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は少年の頃から病気がちだった小松帯刀の死因について取り上げました。小松帯刀は2018年の大河ドラマ『西郷どん』でも登場しますが、病気がちだったため歴史の表舞台にいる期間が西郷隆盛や大久保利通と比べると少ないです。この記事では、小松の病気として肺結核を挙げました。
湯治の肺結核の治療は日本で限界だったため、35歳で死亡しました。当時の日本で肺結核の治療技術が向上していれば小松は長生きできたのかもしれません。次に、湯治について取り上げました。現代では医療技術が発達していて湯治はピンとこない人が多いと思いますが、現代でも皮膚病の治療のために湯治が残っていることを取り上げました。
小松帯刀と湯治との関係については小松の病気の治療だけでなく、身分に関係なく人々と交流するためにも使っていたことを取り上げました。終わりに、小松帯刀と坂本龍馬の新婚旅行について取り上げました。坂本龍馬よりも先に小松帯刀が新婚旅行をしていたことは意外だと感じる人がいるかもしれません。今後の議論に注目したいと思います。
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