中国の歴史を学ぶ上で必読ともいえるのが司馬遷の『史記』です。正統な歴史書である「正史」の筆頭を飾る『史記』は、神話の時代ともいえる頃から司馬遷が生きた時代までを描く超大作。しかし、そのはじまりは版本によって「三皇本紀」だったり「五帝本紀」だったりとまちまちになっているのです。これはなぜなのか?
『史記』の本当のはじまりは「三皇本紀」なのか?それとも「五帝本紀」なのか?その謎に迫っていきたいと思います。
そもそも三皇やら五帝やらとは一体何なのか
ところで、三皇と五帝とは一体何のか気になった方もいると思います。彼らは神話時代に活躍した帝王であり、実はそれぞれが誰なのかは定まっていません。書物によって三皇・五帝とされる人物は異なるのです。三皇は『史記』の三皇本紀では伏羲・女媧・神農の三人としながら、天皇・地皇・人皇の3人であるという説も記しています。
また、同じく『史記』の秦始皇本紀では三皇を天皇・地皇・泰皇としています。これについて『史記索隠』という注釈書を編んだ唐の司馬貞は、泰皇とは人皇であると注を付したり、天皇・地皇・人皇の2人の皇帝の前に泰皇が存在していると注を付したりしているようです。その他、後漢の班固は『白虎通義』で三皇のメンバーは伏羲・神農・祝融の3人であるとしたり、西晋の皇甫謐は伏羲・神農・黄帝の3人であるとしたり、三皇についてはあらゆる説がはびこっています。
しかし、そのカオスは三皇だけではありません。五帝についてもあらゆる説が立てられています。
『史記』の五帝本紀では黄帝・顓頊・嚳・堯・舜の5人が五帝であるとされていますが、『易経』では伏羲・神農・黄帝・堯・舜の5人、『礼記』では太昊すなわち伏羲・炎帝すなわち神農・黄帝・少昊・顓頊の5人が五帝とされるなど、やはり書物によって異なっている様子…。
『史記』の中で生じる矛盾
ところで、皆さんはもうお気づきと思いますが、『史記』の中で三皇についての解釈が地味に食い違っているという問題が発生しています。三皇本紀と秦始皇本紀で三皇として挙げられている人物が違いますよね。三皇本紀では伏羲・女媧・神農もしくは天皇・地皇・人皇が三皇であるとされているのに、秦始皇本紀では天皇・地皇・泰皇が三皇とされているこの問題…。でもまぁ、その矛盾も秦始皇本紀に付された司馬貞の注を読めば、なんとなく納得できるような気もしてくる…。
司馬遷もちょっと疲れていたのかな?と思われた方もいるかもしれませんが、実はこの三皇本紀は司馬遷が著したものではありません。この三皇本紀は、『史記』に注を付した司馬貞によって補われたものなのです。
司馬貞が三皇本紀を補った理由
司馬貞は三皇本紀の序文で次のように断りを入れています。
「太史公・司馬遷は自分が生きた時代までのその歴史のはじまりから終わりまでを文字に起こしたが、三皇を飛ばして五帝をその歴史のはじまりとしている。これは『大戴礼記』五帝徳篇を肯定する内容である。また、歴代の帝は皆黄帝の子孫であるため。黄帝を五帝本紀の筆頭に据えている。
事実、三皇について記された書物は少なく、そのためにわからないことばかりである。それでも、西晋時代には皇甫謐という学者が『帝王代紀』を著したり、三国時代には徐整という学者が『三五暦記』を著して三皇のことを論じている。これらは三皇の存在を証明しうるものであると考え、今、三皇に関するこれらをはじめとする記述を集めて三皇本紀を著そうと思う。」
司馬貞は五帝の前に三皇が存在していたはずなのに、それを無視して『史記』を編んだ司馬遷の姿勢に疑問を持っていたようですね。でも、司馬遷はなぜ三皇の存在を無視したのでしょうか?
あくまで史実のみを伝えたかった
司馬貞は司馬遷の姿勢に共感できなかったようですが、司馬遷が三皇本紀を立てなかったのには十分すぎる理由があったのでした。司馬遷は、あくまで「歴史書」を編みたかったのです。三皇は司馬遷にとっては遠い昔の話であり、三皇が実在したことを証明できないと言うことで、三皇本紀を立てなかったのでしょう。
三国志ライターchopsticksの独り言
司馬貞には不満を持たれつつもその存在が証明できないものについては記さないという司馬遷の姿勢は、後世でも高い評価を得ることになったのでした。
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