坂本龍馬の暗殺の黒幕はいったい誰なのか?
坂本龍馬案殺人の黒幕探し日本史の中でも屈指のミステリーのひとつですね。本当にいろいろな説が飛び交っています。さて、坂本龍馬が、命を狙われていたことは確かでしょう。常にピストルを持っており、寺田屋で吏二人を射殺しています。その割には本人はかなり無警戒な部分があり、結果として暗殺という形で生涯を終えることになります。
さて、坂本龍馬の黒幕は、薩長同盟に関わり、現実の物流の面で薩摩藩、長州藩をつなげていたのが坂本龍馬です。今回は、そのラインから坂本龍馬暗殺の黒幕について推論を進めてみました。
この記事の目次
【閲覧注意】かなり生々しい龍馬の死因
坂本龍馬は頭を日本刀で叩き斬られ「脳がやられた」と死に際にいったと伝わっています。実際に土佐藩士・谷干城は坂本龍馬の死体を検分し、額が15センチ横に切られていたといっています。坂本龍馬は頭に横手から一撃を受けます。その後、自分の刀を手に取ろうと背中を向け、そのときに2度目の斬撃を背中に受け、振り向いたときに3度目の攻撃を受けます。
龍馬は刀でそれを受けますが、血で滑ったのでしょうか。相手の刀はそのまま龍馬の脳天を叩き斬り脳漿を飛散らせます。これが、坂本龍馬の致命傷と呼ばれます。やはり坂本龍馬は頭を斬られたことが直接の死因でしょう。坂本龍馬暗殺を自供している京都見廻組の今井信郎が自白するも、内容が二転三転し信憑性がありません。
ただ、死体を検分した谷干城は、後に捕縛された近藤勇の刑死を強硬に主張するなど、新撰組の仕業であると疑っていた様子があります。
各所から恨まれた龍馬には暗殺される理由が山ほど・・
坂本龍馬暗殺の黒幕は、どんどん増えていきます。いろいろな新説登場してきますが、決定的な一次資料がなくどの説も決め手に欠いています。龍馬暗殺の黒幕説としては「京都見廻組説」、「新撰組説」、「薩摩藩説」、「紀州藩説」、「土佐藩説」などなど。
また、ビジネスパートナーであった「武器商人・グラバー説」や、一緒に暗殺された「中岡慎太郎説」まであるという混迷振りです。ちなみに、中岡慎太郎の暗殺に巻き込まれた説というのもあります。そしてこのような謎めいた事件には必ず登場するフリーメイソン説まであるくらいです。
基本的に、坂本龍馬は各方面で恨みを買っていたという事実はあるようです。紀州藩は「いろは丸衝突」事件で、坂本龍馬に大量の賠償金を取られています。お金だけでなく面子も潰されています。土佐藩では身分の低い下士出身にも拘らず、家老・後藤象二郎との繋がりが太くなっていったなどのことから、藩の内部で恨みを抱くものがいたでしょう。どの説も、坂本龍馬を恨むに足る説明をすることが可能です。しかし、証明ができないので、坂本龍馬暗殺ミステリーは盛り上がるのでしょう。現実にいえることは、坂本龍馬が幕末の動乱期に命を狙われてもおかしくない存在であったということです。
寺田屋で幕吏二人を射殺した龍馬だが警戒感が薄かった
坂本龍馬は、実際に幕府から見ればお尋ね者です。そもそも寺田屋事件でふたりを射殺して逃げてます。幕府から見れば、射殺逃亡犯です。
しかし、坂本龍馬はその幕府の幕臣たる永井尚志とも気軽に会ってもいます。幕臣から発案された大政奉還のアイデアは、坂本龍馬を経由し、後藤象二郎、山内容堂へと伝わり、龍馬が暗殺された1867年一月前の10月に大政奉還がなされました。これにより、幕府は朝廷に政権を返上したことになり、坂本龍馬も警戒感が薄れていた可能性があります。ただ、大政奉還により幕府が完全に機能を失い、政治的な機構がゼロになったわけではないです。実際に京都見廻組は坂本龍馬を狙っていました。坂本龍馬暗殺の実行犯として名の挙がることもある佐々木只三郎も当然目をつけていたのです。
龍馬暗殺の黒幕は京都守護職松平容保
坂本龍馬暗殺の実行犯として最も有力といわれているのが、京都見廻組の佐々木只三郎たちであろうといわれています。今井信の自白という証拠あります。京都見廻組説は、他の龍馬暗殺説よりは証拠が多く、史学の世界では最も有力な説となっています。そうなると、黒幕はどうなるのか?京都見廻組が実行犯とすると、当時京都守護職であった松平容平が龍馬暗殺を命じたのではと疑いがかかります。実際にそれを裏付ける証言があります。佐々木只三郎の兄にであり、松平容保の側近であった手代木直右衛門が「松平容保の命で佐々木が龍馬を殺した」という手記を残しています。
坂本龍馬は小松帯刀の身代わりで殺された!
坂本龍馬暗殺の実行犯は京都見廻組であり、そして黒幕としては京都守護職にあった会津藩主・松平容保の可能が高いのですが、その動機はなんでしょうか。それは、大政奉還に対する反発でした。幕府が政権を朝廷に政権を返上することにより、新政府内で一定の影響力を保つという考えが、大政奉還の根幹でした。しかし、会津藩は家訓として徳川第一の家であり、大政奉還という幕府が政権を放棄するなどは、許容できなかったのでしょう。実際に大政奉還に反対しそれが成立したときに、会津藩士たちは驚愕したと言い伝えられています。
この怒りの矛先は実は坂本龍馬までなく、薩摩藩の家老である小松帯刀であったという説があります。大政奉還は土佐藩の山内容堂の建白で実現していますが、雄藩の中で徳川勢力を残す(有効利用)と考えていたのは薩摩藩内にも多く、会津藩では大政奉還の黒幕は薩摩藩ではないかと考えるものが多かったのです。
そして、小松帯刀暗殺のため、薩摩藩邸襲撃が計画されましたが、岩倉具視がそれを察知します。その情報で、小松帯刀は襲撃を回避することができたというものです。そこで、怒りのやり場がなくなった、会津藩とそれに同調する桑名藩が、坂本龍馬暗殺を怒りに任せ実行したとする見方もあるようです。大政奉還に関しては、そもそも建白したのは土佐藩であるからうらみはあります。また、それに一枚加わっていた坂本龍馬は、暗殺相手とすればあまりに無警戒で狙いやすかったということがあったのかもしれません。
もし龍馬が近江屋で死ななければ海援隊を潰しダーティーなイメージがついた?
坂本龍馬の率いる海援隊は、その初仕事では自らの船はもっていませんでした。大洲藩から借りた「いろは丸」による海運業を開始します。長崎から大坂までの航路で、武器、食料などを輸送する仕事です。そして、「いろは丸」を使うには15日間で500両の料金が発生したのです。自前の船でないため、かなり利益率は悪かったことが想定されます。
しかし、いろは丸は紀州藩の船汽船・明光丸と衝突し沈没しまうのです。ここで坂本龍馬は御三家の紀州藩に対して一歩も引かず、人脈を駆使し、紀州藩包囲網を作り煽動も先導します。さらに、国際法を持ち出し、航行違反をしていたのは、紀州藩の船であるという主張を展開するのです。
その結果、裁判が行われ、今であればありえないことですが、坂本龍馬の海援隊が紀州藩に勝訴します。そして、紀州藩から8万両3000両の賠償金を得ることになります。後に値下げして7万両になり、船の持ち主である大洲藩には4万両が支払われました。差し引き3万両が坂本龍馬の海援隊の懐に入ることになりました。中々、策士というか、したたかな商売人根性を見せつけ、その後の運業を大きく広げていきます。しかし、このいろは丸事件で入手した金額なければ、その後の海援隊はどうなっていたか分からず、船を借りての運輸業者で終わっていたかもしれません。また、龍馬が暗殺されず、その後も生き残っていた場合、政商としてかなりダーティなイメージが残る動きをした可能性も考えられます。
幕末ライター夜食の独り言
坂本龍馬暗殺事件は、史学的には京都見廻組が実行犯であり、裏では会津藩が絵図を描いていた可能性が高いといわれています。ただ、実行犯といわれる京都見廻組の証言も二転三転するところがあったり、龍馬の殺され方があまりにも無警戒であったりなど、不可解で説明できない部分もあります。坂本龍馬暗殺事件のような謎の多い歴史上の事件を、いろいろと自分で調べ、自分で考え、新しい説を作ってみる余地はまだあるかもしれません。それもまた、歴史のひとつの楽しみ方ではないでしょうか。
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