陳寿が著した『三国志』の内容は簡潔というかあまりにも簡素ですから、陳寿の記した文字だけを追って三国時代を理解するのは現代の私たちにとっては難しいものです。そんな私たちを助けてくれるのが東晋時代に裴松之が付した『三国志』の注。
この注が『三国志』だけではなく、『史記』や『漢書』、そして『後漢書』にも後世の学者によって付けられています。その中でも特筆すべきは、『史記』には3種類の注が付けられているということです。この『史記』に付された3種類の注は総称して「三家注」と呼ばれています。今回は、この『史記』三家注とは何なのかを簡単に解説していきたいと思います。
『史記』に最初に付された注
司馬遷によって編まれた神話時代から前漢武帝までを描いた歴史書『史記』は、司馬遷による歴史的人物の褒貶が織り交ぜられており、その内容は時の権力者の怒りを買いかねない内容でした。そのため、司馬遷は死後、『史記』を娘に託して人の目に触れないようにしました。ところが、司馬遷の孫にあたる楊惲がこれを埋もれさせては惜しいと前漢の宣帝の時代に世に出したのです。その後、『史記』はたくさんの人に読まれ、歴史を学ぶ人々の一助となりました。
後漢の班固は『史記』の内容の不備を正すべく、『漢書』を著していますが、その体裁は『史記』に従っているところも少なくありません。その後、西晋時代には陳寿によって『三国志』が編まれ、そして南朝宋の時代には范曄によって『後漢書』が整理されるなど、漢民族の歴史を補完しようという動きが活発になります。
そうした中で、経書だけではなく、歴史書にも注をつけようという動きが起こります。まず、その注を付されたのは内容があまりにも簡素すぎると言われていた『三国志』。そして、『三国志』に注を付した裴松之の息子である南朝宋の裴駰も『史記』に注を付します。『史記』は『三国志』のように言葉足らずというよりも時代が下って理解できない事柄が増えてきたことと、その内容が煩雑であるために注釈を必要とすると裴駰は考えたようですね。
こうして著された『史記集解』は後に三家注の一端を担うことになります。裴駰は経書や地方史、そして経書の注などと『史記』の本文を照らし合わせ、更にほぼ同時代に活躍した学者・徐広の『史記音義』を参考にしながらそのわかりづらい言葉の意味を明らかにしようとしたのでした。
唐代に編まれた2つの『史記』注
裴駰が集解を編んでからさらに時代は下って乱世が終わり、中国大陸が再び統一されて唐代に入ると、再び歴史書に注を付けることが学者の間でブームになります。その中でも有名なのは、顔師古による『漢書』注、章懐太子・李賢による『後漢書』注、そして、司馬貞による『史記索隠』と張守節による『史記正義』あたりでしょうか。
初唐の司馬貞の『史記索隠』はその名の通り、『史記』に隠された真実を模索するために編まれた注釈書であり、文字の発音や意味、地理や人物を詳らかにしようとして編まれたものです。そして、少し時代が下った頃、唐の絶頂期を生きた張守節によって編まれた『史記正義』もまた、文字の音や込められた意味を明らかにし、『史記』の真理に近づこうとする内容になっています。ますます『史記』の時代から遠のき、さらには裴駰の『史記集解』の時代までもが遠い昔になってしまったため、司馬貞も張守節もよりわかりやすい注が必要だと考えて筆を振るったのでしょう。
3つの注釈書が合体!
これ以後も『史記』注と呼べるものはたくさん編まれていきますが、『史記』を読むうえで絶対に目を通しておきたい注とされたのはやはり裴駰による『史記集解』・司馬貞の『史記索隠』・張守節による『史記正義』、以上の3つの注釈書でした。学者たちは『史記』を読むのに、『史記』そのものとは別に3種類の違う注を机に並べて読んでいたといいます。しかし、もともとは別々に刊行されていたこれらの本も、時代が下るにつれて合体させられ、1冊の本として刊行されるようになります。そうすれば、机の上もすっきりする上に読み比べるのも楽チンになりますからね。
三国志ライターchopsticksの独り言
最終的に『史記』の本文とも合体した三家注は、『史記』を学ぶ上で欠かせない注釈書として現代においてもたくさんの学生たちの学習をサポートし続けています。
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