足利義満は室町幕府の3代将軍です。功績としては日明貿易を開始したり、六十年も続いた南北朝時代を終わらせたりしていますが、特に有名で分りやすいのは鹿苑寺金閣を創建し建物を金箔で覆った事でしょう。今回はそんな足利義満を簡単に分かりやすく解説します。
見た目は強面パワハラ将軍だけど
足利義満は肖像画でも分かる通り、かなり強面な人物です。イメージだけでなく義満はかなりの剛腕で、守護大名の土岐氏、山名氏、大内氏を弱体化させ、九州探題として独自の権力を確立していた今川貞世を罷免するなど、勢力が強くなり過ぎた守護大名の内政に干渉して謀反に追い込み討伐して勢力を削ぐを繰り返しています。守護大名から見ると典型的なパワハラ将軍だった事でしょうが、これは義満の責任ばかりではなく室町幕府が抱えた構造的な欠陥でした。
自分の領地が少ない室町幕府
足利義満の祖父にあたる足利尊氏は鎌倉幕府の御家人から出発し、後醍醐天皇の倒幕運動に参加して、鎌倉幕府の京都監視所である六波羅探題を滅ぼした人物です。建武の新政では手柄第一の存在でしたが、後醍醐天皇の政治は貴族や一部の武士を優遇するもので、倒幕に功績があった大多数の武士は貧しくなったので尊氏は天皇に反旗を翻しました。室町幕府はこの尊氏が開いたものですが、後醍醐天皇の南朝は手強く、足利尊氏の存命中には滅ぼせず、義満の父である2代将軍足利義詮の時代でも無理でした。また、祖父の尊氏は恐ろしく気前が良い一面があり、手柄を立てた武将には大盤振る舞いしたので、足利家の領地は少ししかなく、また弟の足利直義と観応の擾乱で武力対決した影響で内紛も起こしていたので、南朝のみか身内でも戦争をし幕府の基盤も完成させられないままでした。
守護大名に振り回される義満
義満も歴代の足利将軍と境遇が同じでした。いえ、同じというよりもっとヒドイものでした。それというのも義満が10歳の時に、父、足利義詮が病死していたからで少年義満は有力守護大名細川氏に周囲を固められ、足利一門の守護大名による指導を受けながら帝王学を学んでいきます。と言えば聞こえはいいですが、自分の権力は何一つなく、父や祖父の代から仕える強面の守護大名に指導を受ける毎日は、義満の性格を複雑なものにしていきました。
スネ夫体質で最高権力を得る
しかし、有力守護大名の顔色を見ながら政権運営をする中で義満は、守護大名同士にも確執がある事を学んでいきます。成人した義満は、守護大名の利害得失を巧みに利用し、邪魔になった守護大名を挑発して謀反させ、それを味方の守護大名に討伐させるようになります。義満は倒した守護大名から領地を削って、自分に味方した守護大名に与える事で、強大な守護大名が登場する事を抑えたのです。一方で義満は将軍の常備軍である奉公衆と幕府の実務官僚である奉行衆を整備し、守護大名に頼らずとも将軍が直接に軍事と行政を指示できるように機構を整備しました。1392年には南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に三種の神器を返却させ58年継続した南北朝時代を終結させます。
公家としても昇進し無敵に
南北朝を終わらせ、有力な守護大名を討伐し武家として権力の頂点を極めた義満は、今度は公家に接近していき、祖父の尊氏を超える内大臣、左大臣への昇進を果たし、ついには平清盛と並ぶ太政大臣まで到達します。明との勘合貿易も開始して得た富を使い、鹿苑寺金閣や八角七重塔を造営します。金閣は三層構造で二階と三階は金箔で塗られました。こうして見ると自信満々の嫌なパワハラ将軍に見える足利義満も、有力な守護大名に揉まれながら強かに成長していった事が窺えます。黄金は極楽浄土のイメージにもあり、永久不変の存在でもあり、美術的にも黄金は重要な地位を占めます。義満の黄金好きは、複数の要因があっての事でしょうね。
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