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大奥の壮大さが明らかに!江戸時代の女性たちの[宮殿は?]

2024年10月1日


篤姫と徳川家

 

 

大奥(おおおく)といえば、多くの人にとって女性ばかりがいる世界で将軍以外の男性は入れないというイメージがあると思います。大奥が舞台になったドラマがテレビで放映されたことで、愛憎渦巻く女の園で、ドロドロした世界という印象を持った人がいると思います。テレビドラマ以外の多くでは、日本史の授業で、将軍の世継ぎを作るために多くができたことや大奥の出費が多いことから幕政改革で大奥の経費節約をすることを試みたことを聴いたことがあるかもしれません。

幕末 大奥でモテモテ阿部正弘

 

実際、大奥の経費や面積についてほとんどの人が知らないと思います。将軍の正室である御台所や将軍の生母など地位の高い人を含めて、何人の女性が大奥で働いていたか気になっていると思います。大奥の面積や地位などの制度も気になっていると思います。この記事では大奥の人数・面積・経費を紹介します。この記事の後半では大奥を支配した女性と大奥の終わった日を取り上げます。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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大奥について簡単に説明

 

大奥は3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)の頃にできたと言われていますが、実際は初代将軍徳川家康(とくがわいえやす)の頃からありました。当初、政治を行う場所を「(おもて)」とし、城主とその家族の私的な生活の場を「(おく)」とそれぞれ呼んでいました。

 

表と奥の境目がはっきりしていなかったため、2代将軍徳川秀忠(とくがわひでただ)のとき、表と奥の境を設けたと言われています。3代将軍徳川家光のとき、家光と正室の仲が悪く、跡取りができませんでした。家光に跡取りができないことを心配した春日局(かすがのつぼね)は、大奥を組織的に整備し、跡取りを作るための女性だけの組織にしました。これが現在知られている大奥となっています。

 

 

大奥は江戸城の何処にあった?人数や面積は

 

大奥は江戸城本丸の北側にありました。大奥といえば将軍家の子女や正室、奥女中たちの居所で、700人ぐらいの女性が仕えていました。幕末の時が多く、1000人いたと言われています。大奥で働いている女性の給料は次の通りです。幕府から正規に雇われて給料を得ていたのは700人のうち300人で、女中が私的に雇った女性が300人から400人いました。江戸城の面積は約36000平方メートルで、そのうち表と中奥の合計で約15000平方メートル、大奥が約21000平方メートルでした。大奥が最大の割合を占めていました。

 

 

大奥の経費はどれくらいかかった?

 

江戸幕府で最も経費がかかったのは大奥であると言われています。幕政改革で経費節約のために大奥の改革にメスを入れようとしたことがあります。では、大奥の経費はどのくらいかかったのか気になっていると思います。これから具体的な費用を取り上げます。

 

宋銭 お金と紙幣

 

経費の中で女中の給料については、将軍や御台所(みだいどころ)に謁見できるお目見え以上で、700万円から最も多い人で2700万円でした。謁見できないお目見え以下の場合、70万円程度でパートタイム労働者と同じくらいだったと言われています。大奥で多くの女中が働いていたことから150億円程度かかったと考えられます。

 

 

 

経費がかかり、幕府の財政状況が厳しくなったことから幕政改革で大奥にメスを入れようとしたことがあります。8代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)の場合、美人は他に貰い手があるからということで美人をリストラしました。このリストラは経費節約のためであると言われていますが、尾張藩寄りの女中を排除する狙いがあったともいわれています。

 

 

 

大奥を支配した有名な女性には誰がいる?

篤姫

 

大奥を支配した女性として、幕末の難局を乗り切ったという点で天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)が挙げられます。篤姫は薩摩藩島津家分家の島津忠剛(しまづただたけ)の娘で、後に島津斉彬(しまづなりあきら)の養女になり、13代将軍徳川家定(とくがわいえさだ)の正室となりました。

 

徳川慶喜(幕末)

 

13代将軍徳川家定は病弱で後継ぎができないことから、島津斉彬から命令されて、篤姫は家定の正室になることによって、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)を後継者に指名するように働きかけました。幕末まで江戸幕府に残り、江戸城明渡し後、女中たちの縁談と就職の援助をしました。

 

 

大奥はいつまで存在していたのか

 

3代将軍徳川家光の頃から江戸城が新政府軍に明け渡すまで、大奥は続いたと言われています。江戸城明渡し後、和宮と篤姫たちは御三卿だった清水家や一橋家の屋敷に入りました。

 

 

幕末ライターオフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

今回は、大奥ができた経緯や人数・面積・経費について取り上げました。この記事では大奥の女中の権力について取り上げませんでした。大奥と政治権力の関係についても注目したいと思います。

 

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自己紹介:フリーランスで予備校の講師をしています。 歴史が好きで、予備校では主に日本史を指導しています。 センター試験の点数を40点台から80点台に伸ばした実績があります。 好きな歴史人物:徳川慶喜(理由:多趣味であることが共通しているから)

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