水滸伝(すいこでん)に登場する百八の好漢達、彼等が梁山泊に終結する理由は、
宋国を牛耳り、腐敗の限りを尽くす四奸(しかん)と呼ばれる4人の悪党を斬る為です。
その4名とは、高俅(こうきゅう)、蔡京(さいけい)、童貫(どうかん)、
楊戩(ようぜん)と言い、結託して悪事を行い弱い人々を虐げ暴利を貪っているのです。
では、そんな四奸は、どんな連中なのか、ここで紹介しましょう。
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この記事の目次
水滸伝では諸悪の元凶、元遊び人 高俅
高俅(こうきゅう)は元の名を高二(こうじ)と言い、生まれついての遊び人
大金持ちに張りついて、蹴鞠(けまり)、詩、棒術、相撲、音楽などの芸を見せて
代わりに遊び金を得ていました、平たく言えばタイコモチです。
一方で高俅は、無頼の浪人を束ねて、ゆすりやカッパライ、強盗などをしていたので
ある時、王昇(おうしょう)という禁軍の武術師範に逮捕され棒で撃たれています。
しかし、突然、高俅に幸運が舞い込んできます、蹴鞠の腕前を宋の皇族の
端王に見出され、王の蹴鞠の相手などをする間に心を掴んだのです。
さらに端王が即位して8代皇帝徽宗になると、お気に入りとして、
特に科挙などに通っていなくても成れる武官の職について累進していき、
宋軍の総大将である殿帥府大尉(でんすいふ・たいい)にまで昇進します。
出世しても遊び人の本性は直らず世を腐敗に引きづり込む
出世したからとて、高俅の性格は変わりません。
国家の軍隊を勝手に使い、賄賂をやらない人間を逮捕したり、土木建造物を
兵士を使って無料で建てさせる、給料をピンはねする、軍需物資を私物化するなど
やりたい放題をして大いに宋軍を弱体化させました。
また、当人以外の親戚もロクデナシが多く、養子の高衙内(こうがない)は
林沖(りんちゅう)の妻に横恋慕して、林沖が山賊に落ちる切っ掛けになり、
甥の殷天錫(いん・てんしゃく)は、高俅の甥である事をかさに着て
柴進(さいしん)の邸宅を奪うなど、好漢達にも度々、迷惑を掛けています。
一度は、官軍として凌山泊に攻め込み捕まっていますが、役人に戻りたい
宋江は高俅を釈放、それを恩に着るかと言えばとんでもない表面上は、
和睦したフリをして梁山泊を官軍に引き込んで各地で戦争にコキ使い
最期には、宋江や盧俊儀に毒を盛って排除に成功しました。
そして、水滸伝一の悪党であるにも関わらず、殺されもせず、
徽宗皇帝に「めっ!」と叱られて終わりなのです。
史実の高俅は、義理堅い一面もあった・・
史実の高俅は、軍隊を私物化した奸臣ではありますが、物語よりはずっと小悪党で、
当時の代表的な奸賊、六賊にさえ名前があがらない程度でした。
また、水滸伝と違い、まったくの恩知らずでもなく、かつて、役人の蘇軾(そしょく)の
書記に雇われた恩義をずっと忘れず、政変で失脚した蘇軾の一族の面倒を
最期まで見ていたという逸話が残っています。
彼以外の三人には、こんな逸話は無いので、史実では四奸の中で
一番まともな人物であるようです。
史実では高俅以上の大悪党、蔡京
蔡京(さいけい)は、高俅と共に名前があがる奸臣ですが、活躍はずっと地味でした。
登場場面としては、晁蓋(ちょうがい)や呉用(ごよう)、公孫勝(こうそんしょう)
阮兄弟(げんきょうだい)が強奪を企てた賄賂、星辰綱(せいしんこう)の送り主が
蔡京で、北京大名府の梁世傑(りょう・せいけつ)は、蔡京の娘婿に当たっています。
また、宋江(そうこう)が反逆の詩を壁に書き付けて処刑されそうになった、
江州の知事は蔡得章(さいとくしょう)と言い、蔡京の9番目の子という設定、
蔡九(さいきゅう)と呼ばれていたりしました。
彼も高俅同様に物語では、殺されもせずに「めっ!」で終わってしまいます。
史実では、徽宗時代に16年間君臨した権力の権化
史実においての蔡京は、高俅など足元にも及ばない六賊の筆頭でした。
当時の宋は、王安石(おうあんせき)の新法派と司馬光(しばこう)の旧法派の
対立が激しく、皇帝が代わる度に一方を追放して権力を握る悪循環でした。
その中で蔡京は、旧法派が強ければ旧法派、新法派が強ければ新法派になり
何度か追放されますが、有能な役人だったので、その都度、政権に返り咲きます。
そして、53歳を過ぎて、徽宗の時代に入ると、太師(宰相)として政治を独占、
16年間に渡って君臨し、自分に批判的なものは全て旧法派として弾圧し
権力への強い執着心を見せていきます。
宦官である童貫(どうかん)等と結び、後宮と友好関係を結んで追い落としを阻止し
徽宗の歓心を買う為に、金がかかる巨大庭園などを造る為に民衆に重税を課して、
下からは賄賂を取りまくり、激しい恨みを買いました。
同族間でさえ、仲が悪いと言われた蔡京ですが、1125年に北方の金が侵攻し
宋の国土が蹂躙されると運命が暗転します。
一度は宋が講和を結んで賠償金を支払うとしたので金は引き上げていきますが、
惨めな敗北は、これまでの四奸の悪政のせいとする太学の生徒の不満が高まります。
驚いて引退して太上皇となった徽宗の後を継いだ欽宗(きんそう)は蔡京を筆頭とする
六賊、童貫、梁師成(りょうしせい)、王黼(ほうほ)、朱勔(しゅめん)
李邦彦(り・ほうげん)を流罪にします。
その後六名は、処刑される手はずでしたが、蔡京は老衰で79歳で病死、、
宋の人々は、蔡京を処刑できなかった事を悔しがったという事です。
史実では、梁山泊に代わり、遼や方臘を征伐した宦官将軍 童貫
童貫(どうかん)は宦官です、宦官というと、男性器を切除しているので、
なよなよとしているか、ぶよぶよのイメージですが童貫は筋骨隆々で
まばらですが顎ヒゲも生えており妻帯していて養子までいたそうです。
どうやら、去勢手術が不完全だったみたいですね。
そのような身体的特徴だったので、童貫は軍人になり趣味人の
徽宗の気を引こうと骨董品に親しんで目利きになり徽宗のお気に入りになります。
物語の水滸伝では、四奸の一人というだけで、ほとんど出番がありません。
さすがに物語で四人の奸臣をバランスよく出すのは無理があるのでしょう。
次に紹介する楊戩もほとんど出番はありません。
史実では、将軍として西夏、遼、方臘と戦う童貫
史実の童貫も宦官でありながら軍人の道を選び、劉延慶(りゅうえんけい)、
楊可世(ようかせい)、馬拡(ばこう)という将校を監督してタングート系の西夏と戦い
二十年にわたって兵権を掌握、西暦1111年には太尉、領枢密院に昇進します。
この地位は三公に比肩する高いもので、皇帝との親密さだけが頼りの宦官としては
珍しく非常に高位に上った人と言えるでしょう。
しかし、童貫も給料のピンはね、軍需物資の横流しや着服など評判が芳しくありません。
そんな軍隊ですから、もちろん強いわけもなく士気も上がりませんでした。
そこで童貫は、西暦1120年、新興国の女真族の金に目をつけて同盟を結び
北の遼(りょう)討伐の共同戦線を張ります。
ところが征伐寸前で、江南で方臘(ほうろう)が蜂起、童貫は、軍を江南に向けますが
抵抗は頑強を極め、江南の人民数十万を犠牲にしてやっと鎮圧します。
気を取り直して、1122年に十五万の大軍で遼に侵攻、この前に遼ではクーデターが
起きていて、北遼と名乗り国は弱体化していました。
童貫は楽勝と宣伝して向かいますが、新しく皇帝になった耶律淳(やりつ・じゅん)の
重臣、耶律大石(やりつ・だいせき)は名将で、数だけの宋軍は撃破され、
追撃されそうになった童貫は部下を見捨てて退路を遮断、残された宋軍は全滅します。
最期には金の大軍を前に敵前逃亡、流罪になり斬首される
このままでは戻れない童貫は援軍を要請、二十万の軍勢で北遼に攻めよせます。
ちょうど、耶律大石が建てた耶律淳が病死し、宰相、李処温(りしょおん)の
遺言偽造のクーデター失敗があり、その煽りで遼の郭薬師(かくやくし)将軍が宋に降伏。
童貫は、今度こそいけると全軍を遼の都燕京(えんけい)に投入し、
市街戦までもちこみますが、またしても耶律大石が盛り返し宋軍を撃破、
これで、宋軍はほとんど全滅して童貫は自力で北遼を破るのが不可能になります。
万策尽きた童貫は、金の完顔阿骨打(かんがん・あくだ)に燕京攻略を依頼しました。
阿骨打は承知して、精強な騎馬兵を殺到させて大石を撃破、燕京を残らず掠奪してから、
廃墟になった遼の領地を宋に返還し、褒美として多額の貢物を要求、
宋は遼に代わり多額の貢物を出す羽目になります。
西暦1123年、童貫は太原を守っていましたが、そこに再び金が攻めてきます。
童貫は、「ここは明け渡し黄河の以南を守れ」と脅され、兵を置き去りに敵前逃亡。
これが問題になって逮捕され、六賊の一人として海南島に流される途中、
斬首刑を受けます。
しかし童貫の首は太く鉄のようで、切り落とすのに苦労したそうです。
ガタイは凄いのに、指揮はダメなのか、汚職のせいで宋軍が絶望的に弱いのか・・
どっちも原因のような感じがしますね。
悪政を提案し民を苦しめた宦官らしい宦官 楊戩
楊戩(ようぜん)は、水滸伝では徽宗皇帝お付きの宦官で、皇帝が妓楼に向かうのを
護衛する役割ですが、そこで芸妓の李師師(りしし)に皇帝とのツテを求めにきた
梁山泊の李逵(りき)とトラブルを起こしてしまい、以来、楊戩は梁山泊を
亡き者にしようとつけ狙い、方臘討伐後に邪魔になった梁山泊を排除しようと
高俅と共に緩慢な毒を使って、頭領の宋江や副頭領の盧俊儀(ろしゅんぎ)を
首尾よく毒殺する事に成功します。
悪事は露見しますが、所詮は、徽宗皇帝のお気に入りですから、
本気で処罰もされず、「めっ!」と叱られて終わりです。
史実の楊戩は、悪税を考案実施し人々に憎まれた
史実の楊戩は、水滸伝の登場人物である以上に悪党です。
年少にして宦官になった彼は、徽宗の意に沿うのが上手く西暦1106年頃には
すでに徽宗のお気に入りになっていたようです。
その後は節度使(せつどし)として各地を巡回し賄賂を取り人脈を造り上げて
権力を確固たるものにしていきます。
徽宗は、趣味人であり贅沢な事が好きで奇岩、珍木を集めて巨大庭園を
造るなどしたので常に財源が不足していました。
その頃、胥吏(しょり:下級役人)の杜公才(とこうさい)という人物が楊戩に献策し、
各地の土地を調べて、再び税を掛け直し、その際に契約書がない土地は、
没収してしまうが良いでしょうと言います。
金欠に困っていた徽宗なら、これを喜ぶと考えた楊戩は即提言して、
案の定、採用され悪名高い、索民田契(さくみん・でんけい)の法が施行されます。
再び、土地を測り直す時には、短い紐を使って計り、余ったと称しては
土地を併合、契約書がないと言っては土地を取り上げ、土地を持つ農民には
さらに重税を掛けたので農民はたまったものではありません。
税が掛けられると、土地を捨てて逃げる農民が増加し、田畑は荒れ果てます。
さらに楊戩は、杜公才と組んで、漁民が魚を獲る事にまで租税を掛け、
一つの邑から銅銭十万銭が取られ、旱魃や凶作もお構いなしでした。
宋の財政は一時、潤いますが、一度、税を取った土地は荒れ果て回復不能、
この役所は西城所と呼ばれ、怨嗟の的になります
これだけの悪党ですから、酷い最期を迎えて欲しいですが、運が良い事に
楊戩は宋が金に攻め込まれるギリギリの西暦1121年に死去。
大尉の職を送られ、呉国公と諡(おくりな)されました。
水滸伝ライターkawausoの独り言
いかがでしょうか?意外にも小悪党だった高俅に驚きますが、
大悪党だった蔡京や童貫、楊戩がどうして水滸伝では矮小化されたのか
不思議に思われたのではないでしょうか?
その大きな理由は、高俅がゴロツキから這い上がった男で、
感情移入がしやすいのに対し、エリートで宮廷から出てこないような
蔡京や童貫、楊戩は悪党だとは知っていても、雲の上の人で、
イマイチ、怒りが湧きにくいというような理由があるようです。
現在でも、百万円の横領には、ムカッときますが、51兆円と言われると
あまりにも巨額でピンとこないのに似ていますね。
そこも、水滸伝が大衆文学として発展してきた大きな理由なのです。
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