幕末の薩摩藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)は大久保利通(おおくぼとしみち)、西郷隆盛(さいごうたかもり)を抜擢したことで有名ですね。維新の英傑を育てた明治維新の陰の功労者ともいえる存在です。いえ、それ以上かもしれません。
そして、島津斉彬は「蘭癖大名」と呼ばれていました。「蘭癖大名」とは、現代風に言ってみれば「オランダオタク」、「オランダマニア」です。要するに「西洋文明大好き」という人物だったのです。そして島津斉彬はそれゆえに困難の人生を歩みます。さらに、島津斉彬の生きた幕末時代。
世界の海洋通商国家としての覇権はイギリスが手中にしていました。オランダは海洋通商国家としての地位をイギリスに蹴落されていたのです。オランダは海外貿易の利益をイギリスに投資して、己で敵を育ててしまったので、同情の余地はありませんが。幕末時代、世界は弱肉強食、そして国内も激動する中にありました。その時代を生きた薩摩藩主・島津斉彬。島津斉彬の功績についてイギリスとの関係をみながら考察していきましょう。
この記事の目次
島津斉彬が外国の文化や新しいものが好きだった理由
島津斉彬は「蘭癖大名」と呼ばれ外国文化、西洋文化に強い関心を示していたのはなぜでしょうか。その理由は、曾祖父の重豪の影響があります。重豪はオランダ文化が大好きだったのです。島津斉彬は、その曾祖父の影響を受けて育ちました。
しかも、長い間、江戸育ちですから、薩摩にいるよりも海外情報は入りやすかったというのもあるでしょう。距離は長崎と薩摩の方が近いですが、情報が集まるのはやはり江戸です。そして、島津斉彬がイギリスという世界最強国家を意識するのは、「アヘン戦争」により清が敗れたという事実を知ったときです。
当時の日本人の感覚では、清は圧倒的な大国です。文化の先達の国でもありました。その清がアヘン戦争で、イギリスにボロ負けします。圧倒的大敗です。海外情勢を気にしている当時の日本人にとっては、北朝鮮で核開発が成功したどころの衝撃ではなかったのではないでしょうか。そして、島津斉彬の「蘭癖」はイギリスへの関心へと変わっていくのです。
集成館事業(しゅうせいかんじぎょう)とは何?
島津斉彬は43歳になってやっと藩主になります。当時の日本人の寿命を考えると、かなり高齢での就任ということになりますね。これは、島津斉彬の「蘭癖趣味」が藩財政を傾けると警戒されていたことが大きな理由です。
実際、島津斉彬を可愛がっていた曾祖父の重豪は「蘭癖」趣味のための凄まじい浪費をしています。これが一因で薩摩藩の財政は破たん寸前となりました。いつの時代も、オタクは自分の好きなことのためには、金に糸目をつけなかったのですね。薩摩藩では、調所広郷(ずしょひろさと)が、商人に対し無茶苦茶な要求を通して、何とか藩財政を立て直したばかりです。
ここで、またしても「西洋オタク」の島津斉彬を藩主にするのは、「藩財政を傾けること間違いなしでごわっそッ!」と周囲が大反対だったのです。またそれに輪をかけ、父である島津斉興と仲が悪かったというのもあります。
しかし、彼は藩主になると「集成館事業(しゅうせいかんじぎょう)」を開始します。島津斉彬は、単に西洋の珍しい物をコレクションするというオタク的趣味に走りませんでした。西洋の技術・産業に追いつくべき投資を開始したのです。清を破ったイギリスに代表される西洋列強に対し、日本が独立を守るには、西洋の進んだ武器が必要であり、それを作るためには国内に産業が無ければならないと考えたのです。
アヘン戦争の情報からそのことは分かっていたのです。そしてできたのが「集成館」と呼ばれる大工場群です。この西洋の産業を薩摩藩内で興す事業を「集成館事業」と呼びました。「集成館事業」で生まれた製品としては「薩摩切子」のルーツとなったガラス産業が有名です。その他にも兵器製造、特に大砲の製造に必要な反射炉、溶鉱炉の建造も行っています。この点から、アヘン戦争における清の敗因が「イギリスとの火力差」であることを認識していたのでしょう。
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近代産業の育成に貢献した島津斉彬の功績
他藩でも西洋化目指した藩はあります。四国の宇和島藩では、大村益次郎(おおむらますじろう)と「提灯職人」が、蒸気船を作ったりします。他にも佐賀藩など、西洋の産業を藩内に興そうした藩はあります。
しかし、薩摩藩が本気になったということが、非常に意味があります。なんと言っても薩摩は大藩です。その地力は相当なものがあるのです。雄藩である薩摩藩が、島津斉彬の主導で、西洋の文化、科学技術を取り入れ、産業を起こすということは、小さな藩がそれをやるより大きな成果がでます。島津斉彬の「集成館事業」は大きな費用が大きかったのは事実です。
しかし、その結果、多くの西洋文明を吸収で切る人材を育てたこと。そして、真っ先に日本の重工業として立ち上がる造船業の基礎も作り上げました。薩摩藩が造った西洋式軍艦「昇平丸」は明治期まで使用されたのです。そして、島津斉彬の立ち上げた西洋化事業は、彼の死後も止まることはありませんでした。
薩英戦争では、集成館事業で開発された兵器も登場
島津斉彬の死後起きた薩英戦争では、「集成館事業」で開発された兵器も投入されました。その中には「管制機雷」という海に爆弾を浮かべ、電線でつなげ、船が来たら陸地からスイッチをいれて爆破するという当時のハイテク兵器まで投入していたのです。恐るべき薩摩藩です。
ただ、その場所に船が来てくれないとどうにもできない兵器だったのですが。しかし薩摩は結果としてイギリスに「日本人、恐るべし、獰猛すぎるし」という思いを抱かせています。イギリス側の史料が残っています。勇猛さと西洋文明を取り入れる貪欲さに、イギリスも何かを感じたのかもしれません。
西郷どん(せごどん)の島津斉彬について
NHKの大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」では、島津斉彬を、日本人ハリウッドスターである渡辺謙さんが演じています。この配役という時点で、製作者側が、どれだけ島津斉彬を重要視しているかというのが分かります。「世界の渡辺謙」ですからね。
以前、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」で、主役を演じ渡辺謙さんもその恩義に応えると言っています。魅力的な配役で、いかにも西郷隆盛、大久保利通を抜擢し、育てたという風格を感じさせますよね。
幕末ライター夜食の独り言
もし、島津斉彬が藩主になる前に死んでいたら日本はどうなっていたでしょう。43歳という年齢はいかに大名家の人間であっても、生命に予断の許されない歳だったのです。現代の43歳とは違います。江戸時代というのは健康ということに関して言えば、現代に人には想像もつかぬほど過酷なものだったのです。医学の進歩は微々たるもので、はしかでもバタバタ死にます。天然痘も流行ります。コレラも流行ります。
たった、ひとつの傷でも破傷風になれば、もうおしまいです。体力の衰えていくのも現代人よりも、早かったでしょう。そのような中で、彼が藩主となり、大久保利通、西郷隆盛を抜擢し、西洋化の道筋を示さなかったら、今の日本の姿はだいぶ変わったものになっていたかもしれません。島津斉彬はそれほどまでに、幕末時代の中では重要な人物ではなかったかと思います。
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