今回は台湾出兵について取り上げます。台湾出兵は明治政府の最初の海外出兵と言われています。台湾出兵を通して、日本の琉球に対する立場と狙いについて取り上げます。この記事の後半に台湾出兵後の台湾についても取り上げます。この記事の終わりに台湾出兵当時の明治政府内部の問題についても取り上げます。
台湾出兵とは?
1871年、琉球王国の宮古島の漁民66人が台湾に漂着し、54人の漁民が台湾の先住民に殺害されました。この事件を琉球漁民殺害事件といいます。清は殺害した台湾先住民が起こした事件に対して責任をとらなかったため、日本が台湾に出兵するきっかけとなりました。
台湾出兵とは1874年に明治政府初の海外出兵です。
日本は西郷従道(西郷隆盛の弟)を指揮官として兵3000を出しました。欧米は極東貿易の混乱を避けるために、北京在住のイギリス人公使ウェードが調停に入り、解決しました。
台湾出兵の結果
琉球漁民殺害事件が起こったとき、明治政府は琉球王国に琉球藩を設置しました。琉球王国は清国と薩摩藩の両国の属国でしたが、明治政府は一方的に琉球藩を設置したため清国と対立しました。アメリカによる調停がありましたが、日本と清国との解決に至りませんでした。台湾出兵はイギリスの調停により解決しましたが、その内容は日本が琉球に対して優位に立つものでした。具体的な内容は次の通りです。
清国は日本に対して賠償金を支払うことになりました。和解の文面の中で、清朝が琉球を日本の一部であると認めたと、日本政府は解釈し、1879年の琉球処分へとつながりました。結果、琉球王国は沖縄県となり、日本の一部となりました。次に、台湾出兵後の台湾について取り上げます。台湾は1894年の日清戦争の講和条約である下関条約で、日本の領土となりました。台湾は太平洋戦争で日本が敗戦するまで日本の一部となりましたが、戦後台湾に中華民国が入り、現在に至ります。
台湾出兵の前年に起こった明治政府内での対立
1874年に日本は台湾に兵を出しました。1874年の前年に明治六年の政変が起こりました。明治六年の政変では、朝鮮を武力で開国させる征韓論と欧米諸国から帰国した岩倉使節団との対立で、征韓論が却下され、西郷隆盛ら征韓論者が明治政府を下野しました。
『西郷隆盛の征韓論とはどんなもの?』では、ヨーロッパで政治体制を学んだ大久保利通ら岩倉使節団は日本の政治体制が脆弱であることを認識しました。政治体制が整っていないことから国内政治を優先させなければならないと判断しました。大久保らは征韓論に反対しましたが、なぜ台湾出兵を認めたのか気になります。征韓論者が明治政府を去ったため、不平士族による反乱が起こる危険性が高まっていました。反乱が起こると明治政府は危うくなります。そのため、大久保ら明治政府は不平士族のガス抜きのために台湾出兵を認めたと考えられます。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は明治政府最初の海外出兵である台湾出兵について取り上げました。台湾出兵を通して、琉球王国が沖縄県に至るまでの経緯と台湾出兵後の台湾について取り上げました。今回の記事では、征韓論に反対した大久保利通らが台湾出兵を認めた理由について、征韓論で去った政治家や不平士族による反乱を回避するためのガス抜きではないかと考えられています。
しかし、議会や憲法のない明治政府がなぜ台湾出兵に踏み切ったのか、不平士族のガス抜きのために出兵したのか、他に何か具体的な理由があったのか、これらの問題について触れることができませんでした。征韓論に反対したにもかかわらず、台湾出兵だけでなく、江華島事件や日朝修好条規などアジアに向けて進出し始めます。今後、明治政府初期の外交と政治体制について注目したいと思います。
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