承久の乱は鎌倉時代の中期、朝廷の勢力挽回を図る後鳥羽上皇が鎌倉幕府の中心人物である執権北条義時の追討を掲げて挙兵したものの、1ヶ月程度で幕府に敗れ、後鳥羽上皇をはじめとする3人の上皇が島流しになった事件です。
承久の乱を契機に東日本の地方政権だった鎌倉幕府の支配が西日本まで拡大するのですが、最近の研究では、挙兵した後鳥羽上皇は幕府を打倒する意図はなく、北条義時個人の追討に過ぎなかったのではないか?とする説が出てきたのです。
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後鳥羽上皇の院宣に倒幕の文字はない
承久3年(1221年)5月15日、後鳥羽上皇は「北条義時追討の院宣」を下します。この院宣をもって承久の乱は始まった事になるのですが、この中で後鳥羽上皇は倒幕を掲げているのではなく
”京から派遣した公家将軍を蔑ろにし政治を好き放題に操る北条義時は不忠であるから、その権能を差し止めて天皇自らが命令を下す。決定に叛くものは成敗する”
このように義時の横暴を非難する内容であり、どこにも倒幕の文字はないのです。
鎌倉幕府と呼ばれる政権のトップは当時の言葉では「将軍」ではなく「鎌倉殿」であり、承久の乱当時の鎌倉殿はまだ幼齢の藤原三寅でしたが、その名前も追討令には一切出てきません。こう考えると後鳥羽上皇の目的はあくまで北条義時排除で、倒幕ではなかったとも考えられます。
公家と武家は常に対立していたわけではない
従来の日本史では、公家と武家は絶えず対立していたと考える「公武対立史観」が主流でした。しかし、近年は、こうした考えは見直されつつあり、公武は常に対立しているわけではなく、協調したり時には依存していた関係の時もあったことが分かっています。
例えば鎌倉幕府についても、朝廷は幕府が清和天皇の血を引く源氏の将軍が続く間は容認の構えで、日本を二分して共同統治の感覚でした。ところが、源氏将軍が三代目の実朝で途絶え、朝廷から派遣された公家将軍の藤原三寅を軽んじて、陪臣の北条義時が政治を主導するようになると朝廷は不満を爆発、義時討伐に舵を切る事になったと考えられています。
こうした研究成果を見ると、後鳥羽上皇が幕府を憎んで承久の乱を起こしたのではなく、朝廷の威光を無視した横暴な義時を排除する事が目的だったと考えても違和感はありません。
後鳥羽上皇の挙兵
後鳥羽上皇が流鏑馬揃えの名目で集めた軍勢は、当初1700余騎で、上皇が引き立てた武士のほか、有力御家人の尾張守護小野盛綱や近江守護佐々木広綱、検非違使判官三浦胤義も含まれていました。
また、幕府の出先機関である京都守護の大江親広は上皇方に加わっています。上皇挙兵の知らせは親幕派の伊賀光季や西園寺公経の使者により、5月19日に鎌倉に伝わります。
幕府首脳陣は、鎌倉幕府のゴットマザー北条政子邸に集まり、政子は戦う事を決めて、側近の安達景盛を通じて自身の言葉を御家人に伝えました。
内容はよく知られているように、「貴族の番犬として酷使された武士を解放し地頭として暮らしが立つようにしたのは誰であったか?今こそ、亡き頼朝公の御恩に報いる時ぞ!」
このように御家人の結束力に呼びかける名演説だったようです。翌日、義時の館で軍議が開かれますが、大勢は箱根の関を固めて後鳥羽院の軍勢を迎え撃とうという意見でした。
しかし、幕府の重鎮大江広元が、息子の大江親広が上皇方に付いたにもかかわらず「運を天に任せて京に攻め上るべし」と反論、義時や政子は広元の意見を受け入れます。
幕府軍は、東海道、東山道、北陸道と軍を三方に分け進軍しますが、京に近づくにつれて、幕府に味方する武士で兵力は膨れ上がり、吾妻鏡によれば19万騎に達しました。
後鳥羽上皇敗北、承久の乱終わる
後鳥羽上皇は、幕府軍が19万の大軍で京都に向かっていると知って仰天します。院宣さえ出せば、義時が上皇方についた御家人に殺され決着がつくと楽観的に思い込んでいたのです。
上皇は、慌てて藤原秀康を総大将に17500余騎を美濃国に差し向けますが、東山道軍、武田信光、小笠原長清率いる5万騎に大井戸渡で敗北。秀康は宇治・瀬田で京都を守るとして、早々に退却します。
次に6月6日、北条泰時、北条時房の率いる主力の東海道軍10万騎が墨俣の陣に攻め掛かるも、敵陣はもぬけの殻で上皇方はすでに総崩れで退却していました。さらに北条朝時率いる北陸道軍4万騎も、砺波山で上皇方を撃破し、加賀を経由して京都に進撃、上皇方は袋のネズミになっていきます。
当初見込んでいた鎌倉方の離反がなく、鎌倉方の進撃は予想以上に迅速なため、上皇方は動揺し洛中は大混乱、後鳥羽上皇は残る兵力を、宇治・瀬田に布陣させて宇治川で幕府を防ぐ最後の防衛ラインを敷き、6月13日に幕府軍と上皇方は激突しました。
上皇方は宇治川の橋を落とし必死の防戦をしますが、幕府軍は豪雨の増水で多数の溺死者を出しながら敵陣を突破、上皇方はここで完全に壊滅します。
幕府軍は、6月14日には京都になだれ込み、数日後、後鳥羽上皇は、三浦胤義や山田重忠の徹底抗戦すべしという訴えを門前払いとし、今回の挙兵は側近が勝手にやった事で私は知らないと弁明し義時追討命令を撤回。承久の乱は幕府の完勝で終わりました。
承久の乱はやはり倒幕目的だった
冒頭で、後鳥羽上皇の院宣には倒幕の文字はないと言いましたが、その一方で上皇は、乱の最中、幕府方の御家人の謀反をかなり期待して裏切られた様子が窺えます。
しかし、もし上皇が院宣に「倒幕」の二文字を加えたら、はたして鎌倉武士は義時を裏切ろうと考えたでしょうか?逆に上皇に反発し幕府を守ろうとし、北条政子の演説に説得力が増しただけの結果になるでしょう。
そう考えると、後鳥羽上皇は、幕府派武士の寝返りを誘うため、敢えて倒幕の二文字を削り、問題は義時だけで、義時を排除すれば幕府は存続させると、見せかけようとしただけとも考えられます。
単純に文章上の理由
あるいは、倒幕と書かなかったのは文章上の理由かも知れません。当時、幕府という言葉は=武家政権を指す言葉ではありませんでした。なので、院宣で倒幕を掲げても「はにゃ?倒幕ってなーに?」と外ならぬ武士に、はに丸君のような反応をされる恐れがありました。
それなら、当時の鎌倉政権の中心人物、北条義時を討てと書く方が簡単で分かりやすいでしょう。また、当時の鎌倉幕府の事実上の将軍は、尼将軍北条政子であり、その補佐役が北条義時であり、名目上の将軍である「鎌倉殿」が幼少の藤原三寅でした。
こんな場合、院宣で尼将軍政子を討てとか、鎌倉殿、三寅を討てとは書けば、「女子供を殺せというのか?」と武士たちに疑問を持たれかねず、必然的に補佐役の北条義時を討てと書く事になったのかも知れません。
義時を討てば幕府は崩壊
当時の鎌倉では、北条政子が尼将軍として大きな力がありましたが、すでに老齢であり、承久の乱の4年後には亡くなっています。
それを考えると、補佐役の北条義時を鳥羽上皇が討ち取ったとすれば、義時の息子の泰時は生き残っていたとしても、鎌倉をまとめるのは難しく、幕府そのものが瓦解していた可能性もあります。
また、承久の変では、西国の守護や京都守護職は後鳥羽上皇に味方しており、武士がすべて北条氏についていたわけではありません。もし、状況が後鳥羽上皇有利に傾けば、日和見をしていた勢力や東国の御家人からも、上皇サイドに寝返る武士が続出し、結果、鎌倉は蹂躙され北条氏政権は滅亡したとも考えられます。
だとすれば、上皇が「倒幕」と書かなくても、義時さえ排除すれば幕府は倒れる可能性が十分あり、わざわざ倒幕命令を出す必要が無かったとも考えられますね。
日本史ライターkawausoの独り言
承久の乱は1ヶ月で終わってしまったので、義時を滅ぼした後に後鳥羽上皇がどんな政権構想を描いていたのか分かりません。義時を排除した後の人事等が話し合われていれば、人選を見る事で、鎌倉幕府を滅ぼそうと意図したか、そうでないのか分かりそうですが、現状はどちらとも取れるという事になりそうです。
しかし、長い間、最初の倒幕運動と考えられていた承久の乱が、ただ北条義時を排除するだけの計画であり、武士の忠誠心により阻まれたのだとすれば、これは意外で面白いと思います。
参考:新説の日本史 (SB新書) 河内 春人 (著), 亀田 俊和 (著), 矢部 健太郎 (著), 高尾 善希 (著), 町田 明広 (著), (2021/2/5)
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