三国志の呉は国土の中に大小様々な河川が流れていた事から、
船の扱いに習熟しておりました。
また長江近辺での戦では必ず船を用いて戦っていたそうですが、
三国志で行われた海上戦にはいったいどのような船があったのでしょうか。
この記事の目次
北は乗馬術に長けており、南は船の扱いに慣れている
三国志の時代には色々な戦闘用の船が登場します。
特に船の扱いに習熟していたのは呉の国です。
呉の国は領地の中に沢山の河川が流れていた事から、
普通の生活でも船を使っている事が多いです。
古来から北は馬の産地として有名であり、騎馬に長けていた人が多いとされています。
反対に南には河川が多い事から船の扱いに慣れている人が多かったそうです。
指揮官クラスの人物が乗る「楼船」
今回は騎馬の話ではなく三国志に出てきた船のお話です。
三国志の時代にもたくさんの船が登場しております。
特に船の技術に習熟していたのは呉です。
呉は海戦が決まるとまず兵士達を指揮するための「楼船(ろうせん)」を準備します。
この船は将軍や兵を指揮する立場にいる指揮官クラスの人間が乗ることのできる戦艦です。
楼船は船を二つ横につなげた船に櫓などを立てていたそうです。
この船は全体を指揮するため、水上船では一番後ろに陣取ります。
また三国時代には船を鉄で作る技術はないため、船は木でできています。
そのため楼船に火矢が当たると燃える可能性があります。
そのため敵の火矢を防ぐため、
牛の皮を船全体に貼って火が付かないように工夫されています。
また兵士の数も100人前後乗船することが可能で、
敵から攻撃を受けてもすぐに矢で応戦して反撃することができます。
まさに戦艦にふさわしい防御力と攻撃力を備えておりました。
水上戦の特攻隊長「蒙衝」
水上戦において先鋒を任される船は「蒙衝(もうしょう)」と言われる船です。
この船は少数の人間しか載っていません。
その理由はこの船が船体ごと敵に突撃して、敵の船を破壊する目的を持っていたからです。
そのため、蒙衝で突撃して船がバラバラになる前に乗っている人達は脱出。
その後、後続の味方の船に拾ってもらうようになっております。
まさに特攻隊長の名にふさわしい名を持つ「蒙衝」です。
重厚感あふれる攻撃船「闘艦」
蒙衝のように敵に突撃するだけでは、
敵の船を全滅させるためにかなりの船の数を用意しなくてはなりません。
そのため「闘艦(とうかん)」と言われる非常に攻撃力の高い戦闘艦が登場します。
この船は指揮官クラスが乗る「楼船」の次に巨体で、
船上にはいくつもの櫓を搭載してそこから敵の船へ火矢や弓などで攻撃を仕掛けて、
船にいる人数を減らして、敵船の戦闘能力を激減させることが目的です。
スピードならだれにも負けない快速屋「走舸」
水上戦でも陸上で戦う時のような奇襲作戦が行われる時があります。
そんな時はこの船を使うといいでしょう。
奇襲作戦用の快速船で、「走舸(そうか)」と言われる船です。
この船は一切余計なものを船上に備えておらず、乗船人数も2~3人程度が乗れる船です。
その代わりかなり早く、水上戦での奇襲作戦や伝令用などに使われることが多いです。
敵の陣を乱す役割を担う「先登」
「先登(せんとう)」と言われる船は、多数の兵を載せて敵の船に飛び移って、
船を乗っ取ったりする役目や快速を生かして敵陣の陣形を乱す役目を担っている船です。
敵の船に乗り込む際は、川に飛び込んで敵の船に乗り込むのではなく、
先登の船内には投げ縄やはしごで敵の船へ渡る事ができる道具が積まれていたそうです。
三国志ライター黒田廉の独り言
魏・蜀・呉の各国はそれぞれ船を持っていたと思われますが、
特に造船に力を入れていたのは、魏と呉です。
魏は蜀を亡ぼした後、晋の時代になると呉を亡ぼすため、多くの軍船を建造します。
晋の将軍である王濬(おうしゅん)は蜀の地で極秘に超巨大戦艦を建造してから、
呉へ侵攻したそうです。
この建造した船の木材のごみがすごくて、呉の領土まで流れ着いたそうです。
これらの船の事を知れば赤壁の戦いや需須口の戦いなど面白くなるのではないでしょうか。
「今回の三国志のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまた『はじめての三国志』でお会いしましょう。
それじゃあまたにゃ~」