「魏」ってどんな国?キングダム戦国七雄を徹底紹介

2015年11月10日


 

信 キングダム

 

現在、キングダムで、桓騎(かんき)信(しん)達が立ち向かっている魏(ぎ)は、

戦国七雄の一国で一時期は長期に渡り覇者を出した強国の一つでした。

そこで、今回は戦国七雄の一国である魏について紹介します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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魏の先祖は、周の武王の弟

魏の先祖は、周の武王の弟

 

魏の始祖は、周の武王の弟である畢公(ひっこう)高(こう)でした。

畢とは、周の歴代王である文王等が葬られた土地の事です。

墓のある場所を任されると言う事は孝心にあつい人物だったのかも知れません。

 

しかし、周王朝の力が衰え、子孫の畢万(ひつまん)の時代になると

彼等は畢の土地を追われます。

畢万は力の限り抵抗しつつ、流浪していき当時の大国である晋まで流れつきます。

そこで晋の分家筋である、曲沃(きょくよく)に拾われ

さらに晋王である献公に推挙され、魏の土地を与えられて晋の貴族となり、

彼は魏万と名を改めます。

 

彼が、戦国七雄の魏の直接の先祖という事になります。

 

魏万の孫の魏犨(ぎしゅう)は忠臣で流浪の公子である重耳(ちょうじ)

家臣として、20年に渡り主君である重耳を助けました。

やがて、重耳が苦難の末に晋に帰り、文公として即位すると、魏犨は、

これまでの功績が評価されて重臣へと引き立てられます。

 



勢力を拡大する魏は、紀元前453年に晋から独立

 

魏犨が大貴族になった事で、魏の勢いは盛んになり、春秋時代の終わり頃には、

魏舒(ぎじょ)という人物が勢力を伸ばし、晋の六大貴族である六卿の1人になります。

この頃には、晋王の力は落ち、政治は完全に六卿(きょう)の手に委ねられていました。

さらに、魏駒(ぎく)の時代になると晋の大臣であった智伯(ちはく)を滅ぼして、

趙や韓と共に独立して、晋の領地を三分割してしまいます。

 

弱体化した晋は魏の領地内に細々と存続しますが紀元前376年に

韓と魏の連合軍に攻められて滅亡しました。

 

—熱き『キングダム』の原点がココに—

春秋戦国時代  

 

魏、覇者の時代を迎える

 

紀元前445年に即位した魏の文侯(ぶんこう)は名君でした、彼の時代に魏は、

李克(りこく)、西門豹(さいもんひょう)、楽洋(がくよう)というような名将、

賢臣を大勢集めるようになり、七雄の中でも最強の覇者になります。

さらに紀元前403年には、魏は韓や趙と並び、周によって諸候に任命されます。

ちなみに、この七雄が揃う紀元前403年を春秋時代の終わり、

戦国時代の始まりとする学者も存在します。

 

文侯が没した後で王位に就いた武侯は、名将である呉起(ごき)を疎んじて、

亡命させてしまう事もありましたが、名君ではあり、魏は国力を落さずに済みます。

ですが、武侯の時代には開拓地が消滅し、領土拡張には、戦争以外には、

手段が無くなったので軍事費が増大して魏の経済を圧迫しはじめます。

 

魏、天才兵法家、孫臏(そんびん)によって大敗し覇者の座を滑り落ちる

 

武候が没すると、その子である恵(けいおう)が即位します。

恵王には、龐涓(ほうけん)という名将がいましたが、以前、彼により恥をかかされ、

両足を切断された孫臏は、復讐の機会を習い隣国である斉に仕官します。

 

やがて、魏と斉は馬陵という土地で激突しますが、孫臏の偽の退却に掛った

龐涓は斉軍を深追いして、伏兵にあい大敗しました。

 

これにより魏の国力は衰え、恵王は覇者から滑り落ち、それに代わり、

斉の威王(いおう)が覇者の地位に上ります。

 

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弱くなった魏、隣国の秦の圧迫に怯える

政

 

魏が弱小になった頃、秦は商軮(しょうおう)の変法により強大になっていました。

紀元前340年、商軮の率いる秦軍に敗れて、黄河以西の土地を失った魏は、

秦の圧力を恐れて、都を安邑(あんゆう)から大梁(たいりょう)に遷都しました。

以後の魏も、秦の圧迫からは自由になれず、苦しい政治が続きます。

一時期は、覇者にまでなった魏は見る陰もない程に落ちぶれていました。

 

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魏に公子、信陵君が登場する

 

しかし、紀元前247年、魏には食客3000人と呼ばれた大親分、

信陵君(しんりょうくん)が登場します。

 

信陵君は、秦に包囲された趙の都、邯鄲を単独で助けにくるなど、

男気のある人物であり、また公子でありながら、人を身分で差別しないという

懐の深い人物でした。

人望を得た信陵君は、楚以外の五カ国の連合軍を率いて秦軍を撃ち破り

これを函谷関(かんこくかん)まで押し戻すという奇跡を実現させます。

 

ですが、魏の黄金期もここまで、信陵君を憎んだ秦は、多額の金で、

魏の重臣を買収して、信陵君と魏王を仲違いさせる為のデマを吹き込みます。

元々、猜疑心が強く、弟より才能に劣る魏王は、これを真に受けて、

信陵君を重要なポストから外し、それを悲観した信陵君は、大酒を飲み、

体を壊して数年で死にました。

こうして魏は秦に対抗できる唯一の人物を失い、紀元前225年に

秦の王賁将軍によって攻められて滅亡しました。

 

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三国志ライター kawausoの独り言

kawauso 三国志

 

魏というと、三国志の曹操(そうそう)の建国した魏とかぶりますが、

曹操は、その支配地がかつての魏の領土だった事から国名を魏とします。

また、面白い事に、曹操の魏を奪った司馬炎(しばえん)は国号を晋にしました。

 

戦国時代の魏は、大国晋から独立して誕生し、後漢末の晋は、

大国魏を滅ぼして誕生した事になります。

国名に由来する不思議な縁ですね。

 

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