三国志の時代南方の大勢力としてその威勢を誇った呉の孫家。
孫権の時代に一気に強国へとのし上がっていくのですが、
実は呉の国の内部は二つの勢力によって分裂していたことを知っていましたか。
一つ目の勢力は赤壁の戦いを乗り切るために劉備と同盟することを良しとするも、
赤壁の戦い以降は彼と同盟を維持しつつ、
孫呉の勢力を拡大しようと考える周瑜の勢力いわゆる反劉備派。
もうひとつの勢力は魯粛(ろしゅく)が考える孫呉の盾として劉備の勢力を強大にして、
曹操の魏から身を守ろうとする勢力である親劉備派です。
彼らの勢力は孫呉のトップが入れ替わっても続いておりました。
今回はなぜ親劉備派と反劉備派に意見が分かれてしまったのかを調べてみたいと思います。
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劉孫同盟が始まる前の状況
劉備と孫権が同盟したのは赤壁の戦いが始まる数ヵ月前に同盟が締結されます。
当時曹操は袁紹を倒して河北の覇者の地位を手に入れると同時に中華最強の勢力へと
変貌を遂げておりました。
そして彼は荊州を降伏させると南方に残っている孫呉の勢力を討伐するために、
大軍を南下させます。
孫権は曹操軍南下の知らせをきくと孫家の内部で二つに意見が分かれて議論が行われます。
曹操に降伏する和平派と曹操と一戦を交える交戦派の二つに分かれておりました。
劉孫同盟の始まり
魯粛は孫家単独では曹操軍と戦うことが難しいと判断し、
孫権の許可を得て荊州の状況を視察すると共に荊州の勢力と共同して曹操と戦うことができるか
探りに行きます。
しかし魯粛が荊州の州都である襄陽(じょうよう)に到着する前に、荊州は降伏してしまいます。
彼は襄陽から逃れてきたから劉備の勢力と同盟して曹操と戦うことができるか打診。
劉備は孫権と同盟する意思を魯粛に見せます。
すると彼は劉備と同盟することが可能であると判断すると劉備軍の新米軍師・諸葛孔明を
連れて孫権の元へ急ぎます。
その後孔明と孫権の会見が行われ、劉備と孫権の同盟が成立します。
そして三国志一有名な赤壁の戦いに孫権軍と劉備軍の連合軍は、
大勝利を収めることになるのです。
周瑜と魯粛の見解の違い
赤壁の戦いに勝利し周瑜はそのまま荊州の重要拠点である江陵(こうりょう)を攻略。
劉備も南荊州を攻略して版図拡大に成功しておりました。
こうして荊州に足がかりを得た孫呉の中で劉備と今後どうやって付き合っていくかについて、
魯粛と周瑜の間で意見が交わされます。
二人は劉備との同盟維持に関して意見は合致しておりましたが、
劉備をどのように扱うかに対して意見が違っておりました。
周瑜は「劉備軍の勢力拡大をこれ以上させずに、孫呉のみの勢力拡大を見据えるべきである。
その為には益州を孫呉の手で攻略した後、涼州の馬超と韓遂(かんすい)と手を組み、
天下を二分して曹操と争うべきである」との意見を持っておりました。
しかし魯粛は「周瑜殿意見は壮大で今後の孫家の方針としてはいいと思います。
しかし孫呉が益州を攻略している間に曹操軍から攻撃を受けてしまった時、
どうやって防げばいいのでしょう。
曹操軍が孫呉へ攻撃を仕掛けてくる可能性を考えると
江陵を期限付きで劉備に貸し与えて北からの圧力を劉備に受けてもらっている間に、
我が勢力は内政を整え国力を増大させるべきだと思います。」と
劉備に江陵を貸し与えて曹操軍からの圧力を受けてもらうようにすれば良いとの
考えを持っておりました。
このふたりの議論は終始平行線で決着はつきませんでした。
その後周瑜は孫権を説得して蜀攻略の準備をしている最中に亡くなってしまいます。
周瑜は遺言で跡を魯粛に継がせるようにと孫権に遺言を残し亡くなります。
こうして魯粛が孫呉の政権運営のトップとなると、
孫呉は劉備との同盟の絆を深める方針になっていきます。
親劉備派魯粛が亡くなると反劉備派である呂蒙が跡を継ぐ
魯粛が生きている間は孫家の政権は劉備と絆を強めて曹操と戦っていく方針を貫いていきます。
しかし魯粛死後は孫家の方針は一変します。
その原因は反劉備勢力であった周瑜の考え方を受け継いでいる呂蒙が、
跡を継いだことが原因です。
彼が孫呉のトップとなると劉備との領土問題である荊州問題を片付けるために、
曹操と手を組んで荊州を空っぽにして北上作戦を決行している
関羽がないない江陵を攻撃して、あっという間に占領します。
その後南荊州をすべて手に入れることに成功。
こうして劉備軍を荊州から追い出した後、呂蒙は亡くなってしまいます。
この反劉備派と親劉備派の内部分裂は劉備がなくなるまで続くことになります。
三国志ライター黒田レンの独り言
劉備政権の運命を決定づけることになった孫家政権の反劉備派と親劉備派の分裂。
もし周瑜が劉備との同盟を深いものにしようと考えているのであれば、
荊州問題も起きず、関羽が呉軍と魏軍の両方から挟撃を受けるようなことにならなかったでしょう。
また親劉備派と反劉備派に意見が分裂していなければ、
蜀と呉がしっかりと協力して曹魏討伐を行うこともできたはずですので、
歴史は大きく変わっていたことでしょう。
こういう国の内部的な面でも歴史は魏・呉・蜀の三国による天下統一は、
できないと運命で決定づけられていたのかと勘ぐりたくなります。
「今回の三国志おはなしはこれでおしまいにゃ
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃあまたにゃ~」
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