諸葛孔明のライバルと言っても過言ではない人物。
それは司馬仲達(しばちゅうたつ)です。
今までの三国志では孔明に惨敗しまくっていた仲達ですが、
孔明が拠点としていた城に追い詰めたことがあったそうです。
孔明は少ない人数で城を守っていたのですが、
仲達は孔明が少ない人数で城を守っていることにビビってしまい撤退してしまったそうです。
果たして本当なのでしょうか。
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別働隊として全軍を分散させる
孔明は魏を討伐するために北伐を開始。
彼は陽平(ようへい)に本体一万を駐屯させると他の蜀軍を全軍を別々に行動させます。
司馬懿は孔明の北伐軍を迎撃するために出陣すると20万ほどの軍勢を率いて出陣。
彼は蜀軍が分散して魏へ攻撃を仕掛けていることを知りますが、
孔明を討ち滅ぼせば蜀軍は撤退すると考え、孔明の本隊がいる城へ突き進んでいきます。
孔明最大の危機
司馬懿は孔明が守っている城の付近に到着すると彼が守っている城を調査します。
すると孔明の本隊一万が城を守っているだけで付近に蜀軍がいないことが判明。
孔明も司馬懿の大軍が自らの城に迫っていることを知りますが、
すでに城の付近に来ていたため撤退することもできなくなっており、
最大の危機が訪れる事になるのです。
しかし彼は慌てることなく冷静に部下へ「蜀軍の旗を全てしまって静かにせよ。
また幕舎から兵士達が出ることを禁じ城の四方の城門を全て開かせよ。」と布令を出します。
さらに彼は城門前の掃除をしてきれいにした後、司馬懿の軍勢が来るのを待ちます。
ビビって山に駐屯する
司馬懿は孔明のいる城へ到着しますが城の四方の城門が全て開かれている状態で、
旗指物がなく恐ろしい程静かな状態であることに不信感を抱きます。
そして部下に「孔明は慎重な人物であると聞いている。
もしかしたら付近に援軍もしくは伏兵が潜んでいるかもしれない。
このまま攻撃を仕掛ければ我が軍が全滅する可能性があるので、
近くの山に駐屯して様子を見ることにする。」と述べて付近の山に駐屯することにします。
孔明は司馬懿の軍勢が城に攻撃を仕掛けることなく付近の山に駐屯している様を見て
大笑いして「司馬懿はこの城に伏兵があるかもしれないと危惧して、
攻撃を仕掛けてこなかったのじゃ。
なんてビビリなやつなんだ」と言っていたそうです。
司馬懿はその後孔明の城に伏兵がないことを知ると大いに悔しがりますが、
すでにこの時に魏延(ぎえん)や他の諸将が帰還していたので、
孔明の本隊が守っている城へ攻撃を仕掛けることなく撤退していくことになるのです。
三国志ライター黒田レンの独り言
上記の話は晋の時代の役人である郭沖(かくちゅう)が記した
諸葛亮弁護論と言う書物に記載されている話です。
この書物を読んだ三国志・註を書いた裴松之(はいしょうし)はこのように批判しております。
彼は「そもそも孔明が陽平に駐屯していた時期、
司馬懿は荊州(けいしゅう)を統括しており孔明と戦っている可能性は少ない。
また司馬懿がいかに臆病者であったとしても20万の軍勢を率いており、
しっかりと孔明が守っている城を調査すれば、
伏兵がいたとしても孔明の軍勢を打ち破ることは簡単なことだと考える。
にも関わらず司馬懿がビビって付近の山に駐屯することなどありえるだろうか。
また孔明は魏延に別働隊を率いて行動させたことが一度もなかったのに、
なぜこの時にだけ魏延に別働隊を与えて率いることになったのか。」と
この諸葛亮弁護論に疑問を投げかけております。
果たして郭沖の記した諸葛亮弁護論の戦いはあったのでしょうか。
それとも郭沖の想像の範囲で描かれた物なのでしょうか。
郭沖が居ない今真相は闇の中ですが・・・・。
参考文献 ちくま文芸文庫 正史三國志魏書4 今鷹真・井波律子著など
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