大久保利通の死因は?ご遺体とお墓はどこにあるの?

2018年1月30日


 

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幕末時代は数多くの歴史に名を残す人物が登場しました。

その中でも幕末時代に討幕の中心として活動し、

明治維新後には新たな政府のリーダーとして日本を動かしたのが大久保利通です。

大久保利通の死因は暗殺でした。

その強引な改革は誤解も含め敵を作りました。

大久保利通の暗殺現場は目を覆うような状態だったといいます。

ご遺体はまさに惨殺というしかない状態だったのです。

そして、そのご遺体となっても恨みは消えません。

彼のご遺体は故郷の鹿児島へは帰れませんでした。

では、大久保利通はどこに埋葬され、今はどこにお墓があるのでしょう。

それを今回はご紹介します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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大久保利通の死因は暗殺だった

 

大久保利通は、49歳でその生涯の幕を閉じました。

1878年5月に大久保利通は不平士族6人に襲撃を受け暗殺されたのです。

自宅から明治天皇への元へと向かう移動中のことでした。

不平士族は大久保利通の乗る馬車を襲撃します。

彼を外へと引きずり出し6人がかりで滅多切り、滅多刺しです。

武器は「侍の魂」ともされる日本刀でした。

鋭利な刃は、大久保利通の首を貫きました。

ご遺体を調べた結果、直接の死因となった一撃はこの首への刺突であったとされています。

その一撃は大久保利通の首を貫通し地面に突き立ちました。

その地の名前が紀尾井坂です。

そのため大久保利通暗殺事件は一般に「紀尾井坂の変」と呼ばれ歴史に刻まれることになります。

そのご遺体の損傷は凄まじかったと伝わっています。

頭部に8カ所の斬撃を受け、全身で合計16カ所の死の刃を受けたのです。

頭は叩き割られ、肉は切り裂かれ、骨は断たれた状態でした。

ただ殺すという暗殺ではなく、まるで恨みを晴らすかのように、

大久保利通は切り刻まれて死んだのです。

 

大久保利通は何で暗殺されたの?

 

大久保利通が暗殺されたのは、

彼の業績と欧米諸国を知りすぎていたことが原因であったともいえます。

明治政府のリーダーとなった大久保利通は、

岩倉使節団の一員として欧米の視察に出ています。

目的は江戸幕府の結んだ不平等条約の改正でした。

しかし、欧米諸国に比べ、日本の制度はあまり異質でした。

今の時代からみれば、

江戸時代がそれほど遅れていたということは無かったという説も聞くことができます。

しかし、時代の当事者であった大久保利通にとっては、

異質な日本の制度が条約改正の障害となっていることを見抜きます。

それを日本の遅れであると考えたとしても、

その時代の中の判断としては正しいとしか言えないでしょう。

日本の不平等条約は、領事裁判権を欧米諸国に認めたこと。

つまり日本の国内法で外国人を裁けません。

そして、関税自主権のないことです。

貿易のときに設定する関税を日本は自由にできなかったのです。

これは、日本の制度が欧米諸国のスタンダードに合っていないからだったのです。

犯罪を裁く根拠となる刑法も、

貿易など商売のルールを決める商法も欧米の目から見れば全く整備されていない国に見えたのです。

この時代、欧米諸国から見て異質であることは遅れていることと同じです。

大久保利通の目指した日本の近代化は、日本の欧米化ということでもありました。

そのようにしなければ対等な相手とは認められないのです。

大久保利通の目指した近代化により、古い障害となる勢力は排除されます。

彼は行く道を曲げません。征韓論で対立し、

西郷隆盛が下野することとなっても、大久保利通は妥協しませんでした。

欧米の存在をその目で見た大久保利通と日本に留まった西郷隆盛。

このふたりの見ていた日本は大きく違ってしまっていたのでしょう。

大久保利通は、日本の近代化が最優先であり

征韓論は欧米諸国の介入を受ける恐れがあると考えたのです。

西郷隆盛への友情を心の奥底に封じ込めるしかなかったのでしょう。

西郷隆盛の人望に心酔する士族は多く、彼は不平士族に祭り上げられ、

薩摩で不平士族反乱のリーダーとなります。

そして、明治時代最後にして最大の反乱である西南戦争が起きます。

結果は明治政府の勝利。

西郷隆盛は戦場で介錯され生涯を終えます。

しかし、西南戦争後も不平士族の一部は、暗殺というテロで明治政府と戦おうとしました。

その中のひとり、島田一郎という加賀藩出身で、

明治政府の軍人であった男が大久保利通の暗殺の主犯となります。

彼は自分を含む6人の不平士族で大久保利通の暗殺を行ったのです。

島田一郎を含む不平士族6人は、大久保利通が日本の近代化を目指す中で生まれた犠牲や、

不平等条約の改正が進まず、日本という国が貶められている元凶であると思い込んでいました。

そして、島田一郎は私淑する西郷隆盛を自刃に追い込んだのも、

大久保利通であると恨みを抱いていました。

それゆえ島田一郎たちは、大久保利通を暗殺したのです。それも惨殺ともいえるような方法で。

大久保利通の日本近代化への揺るがぬ信念が生んだ犠牲は

歴史の変革の中では避けられなかったものでそう。

そして、欧米に対する不平等条約の改正がそんなに簡単にいくわけがないことが

島田一郎たち暗殺犯には理解が出来なかったのです。

ただ、大久保利通に対する恨みの多くが誤解であったとしても、

島田一郎たちには知るすべがなかったのも歴史の事実ではあるでしょう。

 

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暗殺時に持っていたとされる西郷からの手紙は何が書かれていたのか?

 

大久保利通は暗殺されたときに、西郷隆盛からの手紙を持っていたと言われます。

2通の手紙です。

その内容はどんなものだったのでしょうか。

1通は「王政復古の大号令の趣旨を外国人に曲解されて、

本国に伝えることがないようにきちんと説明して欲しい」というものです。

もう1通は「写真を撮るのはもうやめろ。

みっともないから」という内容のものだったのです。

西郷隆盛は大の写真嫌いで有名です。

上野公園の西郷隆盛像も絵を元にして親戚からの聞き取りで創られたものです。

写真が無かったのでそのような方法しかなかったのです。

大久保利通が死ぬまで西郷隆盛の手紙を持っていたこと。

明治政府のリーダーとしての大久保利通ではなく、

ともに薩摩藩の下級藩士に生まれた幼馴染で、幼少期に貧乏な暮らしをしていたふたり。

紀尾井坂で暗殺による最期を迎えるときまで、

大久保利通「個人」にとって西郷隆盛は無二の親友であったのではないでしょうか。

西郷からの2通の手紙はその証であったのかもしれません。

 

大久保利通のご遺体とお墓はどこ?

 

大久保利通の葬儀はまさに国葬レベルで行われました。

しかし大久保利通はご遺体となっても、恨まれ続けていました。

故郷である鹿児島県では大久保利通への恨みが大きく、

納骨することが近年までできませんでした。

鹿児島県では西郷隆盛を死に追いやったのは大久保利通であるという誤解が根強く残っていたのです。

大久保利通は、西南戦争が始まった時、

西郷が反乱士族のリーダーであることを信じられず、

それが本当だと分かると西郷を説得しようと鹿児島に向かおうとしました。

しかし、政府に止められます。

明治政府のリーダーである彼をそんな危険な場所へ行かせるわけにはいかないのです。

そして、彼は死ぬ時まで西郷の手紙を持ち続けました。

そして、そのことを誰にも言わず暗殺によって斃れます。

故郷に眠ることを拒まれた大久保利通は一体どこで眠っているのでしょうか。

東京都港区の「青山霊園」に大久保利通の大きなお墓があります。

趣味である囲碁のデザインがなされた土台に、巨大な5メートルの墓石が建っています。

今、彼はそこで永遠の眠りについているのです。

   

幕末ライター夜食の独り言

 

激動の時代ともいえる幕末時代から明治維新にかけ、

私心を捨て他人から「冷血漢」と思われようが大久保利通は、

日本が欧米諸国と対等な国家となることを目指していました。

明治維新を経て近代日本は世界が驚くほどの変革をなしとげ、

欧米と対等の立場の国家となりました。

不平等条約改正は明治時代が終わりを告げる直前に達成されたのです

大久保利通が暗殺された年から33年後、

大久保利通が最後の言葉で残した「後進の賢者」たちが無しとげた成果です。

世界がまだ弱肉強食であった時代に、日本を近代国家へと変えていったのは、

大久保利通の示した強い意志は後進の者に引き継がれ、

彼の指し示した将来への道筋があったからではないでしょうか。

 

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