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大久保利通の政策は何?維新の十傑の思想に迫る

2018年2月5日


 

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幕末時代から明治維新で活躍し

「維新の十傑」のひとりに数えられた大久保利通(おおくぼ としみち)。

そして、新生明治政府の最高権力者となり、近代日本の礎を築いた英傑のひとり。

それが、大久保利通という人物です。彼はさらに一段評価の高い「維新の三傑」のひとりとも評されます。

大久保利通は、幕末時代から薩摩藩の中心として、公武合体政策を推し進めます。

しかし、ある時期を境に「倒幕」へと方向転換します。

なぜ大久保利通は江戸幕府を倒さねばならかったのか。

そして、明治維新を達成し、明治政府の中枢へ、さらに最高権力者に上り詰めます。

 

 

その過程で西郷隆盛と対立し、西南戦争へと時代は流れていきます。

ふたりの政策はなにが違ったのでしょうか。

さらに、江戸幕府が締結した不平等条約。

それは、日本にとって屈辱的な物でした。

欧米と対等の力と制度、文化を持った近代国家とならねば、日本の未来はない。

大久保利通はそう考えます。

そのとった彼がとった政策とはいったいどのようなものだったのでしょうか。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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大久保利通の政策は何?

 

大久保利通は時代の中でその名を浮上させ、

その傑出した能力をみせていくのはまず幕末時代です。

盟友西郷隆盛と共に、大久保利通は薩摩藩の中心へと出世を重ねていきます。

やがて、藩主の御側役という薩摩藩の政治を掌握できる地位に上り詰めるのです。

大久保利通は、幕末時代の巨大な政治勢力であった薩摩藩を動かす立場となったのです。

大久保利通は最初から「討幕」を進めたわけではありません。

京都を拠点として、朝廷に接近します。

後に討幕のパートナーとなる岩倉具視ともこの地で出会います。

大久保利通がまず目指したのは、公武合体政策による幕藩体制を維持したままの改革でした。

しかし、彼は薩英戦争によりイギリスという世界最強国家の力の片鱗を体験します。

今のままの改革、政策方針で、日本は大丈夫なのかという思いが生じたでしょう。

大久保利通はこのままでは、武力による「攘夷」など不可能であることを知ります。

それは、日本の独立すら危うくさせかねない問題を持っていました。

欧米諸国に対抗できる、近代日本のイメージはこのときに、

大久保利通の「目標」として心に刻まれたのかもしません。

大久保利通の目標は、欧米諸国と対等な「近代日本国」を創り上げることでした。

そして、その目標ために政策は存在します。

「攘夷」を捨て、明治以降「変節漢であり、外国に媚びへつらっている」

という悪評が彼の暗殺の一因となりました。

しかし、大久保利通は「変節した」わけではないのです。

彼の目標はあくまでも「近代日本国」を創ることです。

政策はそれを実現するため手段であると割り切った部分が見えます。

薩摩藩を中心とした雄藩連合によって日本の政治主導を奪おうとした大久保利通は、

徳川慶喜、会津藩を中心とする佐幕勢力と決定的に対立します。

雄藩連合による政治主導策は失敗します。

しかし彼は折れません。近代日本を創る目標こそが重要だったのです。

幕府がその障壁となるなら、排除するという政策に舵を切ります。

討幕です。

大久保利通は朝廷への工作を進め討幕の密勅を取り付けるまでに至ります。

その過程で陰謀家と評されようが、彼の方針は揺るぎませんでした。

徳川慶喜の反撃ともいえる大政奉還に対しでも王政復古の大号令により、

幕府勢力の排除を計ります。

抵抗みせる幕臣の残党、佐幕勢力を戊辰戦争で破り、明治時代を切り開きました。

その後も彼の政策の目標は一貫しています。

全ては欧米諸国と対等な近代国家たる日本を創るということに集約されるのです。

 

幕藩体制の問題と中央集権国家目指す大久保利通の政策

 

大久保利通にとって幕府の打倒は目的ではなく、

近代日本を創る上での手段であり政策であったともいえます。

公武合体政策に続き、雄藩連合による政治主導がなった場合、

果たして日本の近代化があり得たかどうかは「歴史のIF」の部分に入るでしょう。

ただ、その後の大久保利通が中心となって行われた「版籍奉還」、

「廃藩置県」により中央集権的国家体制が作られ、

明治日本は近代化のためのスタートラインに立てたのです。

幕藩体制が内包する最大の問題である、統一的な中央政府の欠如。

全国統一した収税システム欠如は、雄藩連合による改革でなしえたかどうか。

非常に難しいものがあったのではないでしょうか。

大久保利通は、日本が近代国家となるためには、

中央集権国家体制を必須考え、数々の政策を打ち出します。

明治政府の1873年、内務省を設立しその長となる内務卿となった大久保利通。

彼は明治政府の最高権力者となりました。

そして、中央集権的な国家体制創りにまい進します。

その政策は全て欧米と対等な近代国家たる日本を生み出すためでした。

欧米と対等な日本。それは、不平等条約の解消によってなさます。

しかし、その前にクリアしなければいえない問題が日本国内には多く残っていたのです。

 

近代日本の基礎を作った大久保利通の政策

 

明治政府の最高権力者となった大久保利通の政策の目標は

「欧米諸国と対等な近代日本国」の創設を目指したものでした。

ですので、征韓論が浮上したときも、彼は揺るぎません。

その判断の基準は近代国家・日本の利益になるのかどうかとことが重要なのです。

征韓論を巡った対外政策で西郷隆盛と対立し、西郷隆盛は下野します。

岩倉使節団に参加し、欧米諸国の情勢をその目で見た大久保利通は、

今の日本が対外的に打って出る政策を許容しませんでした。

それは、欧米諸国の介入を許し、下手をすれば日本の植民地化につながりかねないリスクがあると考えたのです。

しかし、西郷はその意見に承知せず、ふたりの政策は真っ向から対立したのです。

そして、征韓論の政争で敗れ、

明治政府から下野した西郷隆盛は時代の流れの中で切り捨てられた者、

その流れに乗ることができなかった不平士族たちに祭り上げられたのです。

彼は、西南戦争の首魁として戦い、自刃します。

しかし、大久保利通が最後まで西郷隆盛との間に友情と絆を感じていたことは確かだったのです。

大久保利通が、暗殺されたときに身に着けていた西郷からの2通の手紙からそれが推測できるでしょう。

大久保利通は強い意志を持ち、近代日本を創るための「公人」として

「私人」としての大久保利通の心すら切り捨てたのでしょう。

その心からいくら血を流そうが、他人には見えることは無いのです。

大久保利通は、中央集権国家体制をもった近代日本を創るため、数々の政策を実施しました。

教育システムの国家統一を成しえた「学制」。

国家として一元化された教育制度が必要であることは、

今の日本人には説明の必要もないでしょう。しかし、当時日本では画期的な出来事だったのです。

江戸時代の教育水準の高さはよく耳にします。

しかし、幕藩体制下では、国家で統一した教育などできはしなかったのです。

それは、幕府や藩の政策としてなされたものではなく、

民衆がその必要性で作り上げたシステムによる教育水準の高さでした。

そして、全国の徴税システムを一元化した「地租改正」。

この「地租改正」では、江戸時代に徴税責任を持った代官が地主勢力と癒着し、

とくに天領地では非常に低い税率であったことが近年の研究でわかっています。

それゆえ、地租改正は結果として「増税」となり主に天領地での反乱を発生させました。

大久保利通はこのとき、当初の税率3%から2.5%に下げるなど、

柔軟な対応を行っています。

大久保利通は、政治家として、決して硬直した思考の持ち主ではありませんでした。

地租改正の意味として重要なのは、

全国で統一された徴税システムが構築されたという部分があります。

金納の地租による財政の確保と同様に、この点は重要視されるべきでしょう。

そして、国家の安全保障のため「徴兵令」を実施しました。

世界は弱肉強食の時代でした。

弱みをみせれば、国家主権を失い、植民地化される危険性のあった時代なのです。

それに対抗できるための、国家で統一された武力を持つということは、非常に重要なことだったのです。

兵器、指揮系統、訓練・教育などが統一されなくては、近代軍とはいえません。

そのような軍を作ることは、当時の日本にとっては生き残るための絶対条件でした。

数々の中央集権的近代国家の基礎となる制度を創り上げていく政策を遂行したのが、

政治家としての大久保利通なのです。

 

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維新の十傑とは何?

 

非常に優れた政治家であった大久保利通は「維新の十傑」のひとりと言われます。

幕末時代から明治維新にかけ活躍し、討幕に関わった人物が「維新の十傑」に上げられています。

その人物は主に薩摩藩、長州藩出身者となります。

大久保利通以外の人物では、幼いときから友であり、ともに討幕に活躍した西郷隆盛がいます。

同じく薩摩藩の藩士の小松帯刀もそのひとりで、

討幕の中心で活躍した人物です。彼は、薩摩藩の高い身分の出身でした。

西郷隆盛が彼の器量を試そうと部屋で寝転がって待っていたことがあります。

当時の身分としては小松帯刀の方が上です。

小松帯刀は、寝転ぶ西郷を見ても怒るどころか、枕を用意させたといいます。

西郷は彼の器量に感心したと言い伝えられます。

明治政府でもその能力に期待されましたが、病のため36歳で死んでしまいました。

1870年(明治3年)のことです。

そして長州藩出身者では、大村益次郎という幕末最高の軍事指揮官がいます。

元町医者です。

実戦部隊の長として、直接幕府勢力を打倒した人物のひとりです。

さらに長州藩では木戸孝允がいます。彼は大久保利通、

西郷隆盛と並び「維新の三傑」のひとりとして一段高い評価も受けている人物です。

初期の明治政府の中でも活躍しますが西南戦争の最中に病死してしまいます。

前原一誠も長州藩出身の「維新の十傑」のひとりですが、

明治維新後は、萩の乱の首謀者として処刑されます。

広沢真臣も「維新の十傑」のひとりです。

討幕に活躍した彼は、大久保利通と同じく暗殺されます。

1871年(明治4年)のことでした。

薩長出身者以外では、肥前藩出身の江藤新平も「維新の十傑」に数えられます。

彼は、佐賀の乱の首謀者となり、乱終結後には、再起を期すため奔走します。

しかし、その途上で明治政府内にいたときに自分の定めた

「指名手配制度」で捕まった第一号となり、処刑されます。

横井小楠も薩長出身者以外で「維新の十傑」と評される人物です。

幕政改革や公武合体などで活躍しますが、彼も暗殺で命を落とします。

そして、今はもう覚えている人も少なくなったであろう500円札の肖像画だった岩倉具視。

公家出身の彼も「維新の十傑」として名を連ねています。

討幕ために京都での朝廷への各種工作。

明治維新後は有名な「岩倉使節団」の特命全権大使として、欧米諸国を訪問しています。

そのときの頭から突き出た現代視点では、

アバンギャルドな髪型は「未開国の人間だと思われる」と批判され、

欧米諸国訪問中に髪型変更を強制されました。

以上が「維新の十傑」と言われる人たちです。

 

幕末ライター夜食の独り言

 

大久保利通は、近代国家日本を創ることに貢献した人物です。

その政策は「中央集権的近代」国家である日本を作ること。そして、欧米と対等な国家となることでした。

教科書にも載っている有名な「富国強兵」というスローガンも彼が打ち立てたものです。

また「殖産興業」という産業育成計画も推進していきます。

しかも彼は公投資に私財を投げ打っているのです。

清廉潔白な人物であるがゆえに自己弁護もしなかったのでしょう。

悪評の否定もしません。また、否定しても無駄だったでしょう。

そんな女々しさの許される時代ではなかったということです。

大久保利通は、不平士族の恨みを買い、非業の死をとげます。

しかし、幕末時代から明治維新という激動時代。

政治家として大久保利通という傑出した人物がいたことは、日本にとって幸運なことだったかもしれません。

そして今回、大久保利通ともに取り上げた「維新十傑」の人たち。

その暗殺率の高さ、そして反乱による死の多さ。

まさに、幕末から維新が激動の時代だったということを物語るかのようです。

 

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