薩摩藩主・島津斉彬の死が「暗殺ではないか」という話は以前からありました。一般には島津斉彬はコレラで亡くなったのではないかと考えられています。しかし、その死のタイミングがあまりにもでき過ぎだったのです。島津斉彬は、将軍家の後継問題に介入し、政争の最中に死を迎えたのです。
薩摩藩主・島津斉彬の死は「暗殺」だったのでしょうか。それも普通の病死だったのでしょうか。暗殺であるとすれば、犯人は一体誰でしょう。そしてその動機はいったいなんだったのでしょうか?今回は島津斉彬の死について考察していきます。
島津斉彬が亡くなった年表
薩摩藩主・島津斉彬は1858年7月16日に死亡しました。斉彬は死亡する8日前には薩摩藩の城下、つまり今の鹿児島県鹿児島市で、軍の視察を行いました。そして、自分で釣った魚を食した後に体調を崩します。ことのとき、高熱、下痢などの症状があり死因はコレラではないかと言われています。
死までの動きを年表的に見ていきますと以下のようになります。7月8日には軍の視察をするほどに元気であった。その日、魚を食べた後に体調を崩した。7月14日の時点では下痢と高熱が確認された。また、別の史料では「心臓が弱っている」という医師の診断もありましたが、心臓が弱るのは、コレラで死にそうになっていれば誰でもそうなるでしょう。このままであれば、普通にコレラで死亡したのでいいのではと思いますが……
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島津斉彬が急死した理由
しかし、島津斉彬の死はあまりにもタイミングができすぎだったのです。少なくとも後世の目か見ると非常に不自然に見えないこともないです。徳川将軍・家定が死去します。そして、その後、将軍の継問題が浮上します。島津斉彬は、自分の政治力により「公武合体政策」のために、徳川家に篤姫を嫁がせているのです。
篤姫通して、島津斉彬は幕府内部の将軍跡継ぎ問題に干渉していきます。一橋派と組んで水戸藩主・徳川斉昭の息子である慶喜を次の将軍に就任させようと動くわけです。しかし、薩摩藩といえば、関ヶ原からの因縁が続く外様中の外様大名という存在となります。そんな、外様大名が幕政の内部にまで介入してくることに、徳川直参の大老・井伊直弼が、快く思うわけがありません。
島津家と井伊家は関ヶ原以来の敵ですから。そんな因縁まで当事者が思っていたかどうかは別として、保守的で徳川家を守ることを自分の使命であると信じていた井伊直弼にとっては、島津斉彬は邪魔な存在だったでしょう。島津斉彬は、この将軍後継問題に圧力をかけようと、軍勢を率いて京都に向かい、朝廷工作を行うことを考えていたようです。
朝廷の側から圧力をかけようと画策したわけですね。そして、その直前に島津斉彬は死にます。あまりにも、将軍後継問題で争っていた相手にとってはラッキーな死だったのです。そのため、島津斉彬の急死の理由に「暗殺」が浮上してくるのです。そして、暗殺だとしたらその犯人はだれなのかということが問題ですよね。
島津斉彬は弟・久光によって暗殺されたの?
島津斉彬の死因を暗殺だとする者も、その犯人に関しては様々な説を上げています。一番得したのは、対立していた井伊直弼ということになりますね。その他、父親の斉興であるという説もあります。元々、仲の悪い父子であり、京都に兵を引き連れ朝廷工作などしたら、逆に島津家は終りになってしまかもしれないと考えても不思議はないです。
しかも、斉彬の近代産業を起こすための事業は非常にお金のかかるもので、父親の斉興から見れば「こいつ、島津家潰すつもりか?」と思っても仕方のない状況だったかもしれません。立場により人それぞれに正義があるのですから。しかし、他にも容疑者がいます。島津斉彬の弟である島津久光です。
ふたりの関係はそれほど険悪ではないとされていました。憎み合っていたのは父と子です。斉彬と斉興の父子が徹底的に対立していたのは確かです。しかし、久光とはどうであったのか。実は父親の斉興が藩主にしようとしていたのは、久光の方でした。斉彬がいなければ、自分が藩主に馴れた可能性はあったのです。ただ、島津家の後継争いで勝利したのは斉彬でした。その恨みが、弟の久光のあったのでしょうか。これは、状況証拠しかないのです。
斉彬の息子たちが死んでいったのも弟の久光の暗殺ではないかという説もあります。しかし、江戸時代の医療レベルを考えれば、人の若死に珍しいことではないでしょう。そして、島津斉彬が死亡するときに、下痢と高熱を訴えていることも、暗殺説の根拠を薄くします。当時よく使われたヒ素中毒でもそのような症状も出ますが、そもそも高熱、下痢のでる病状などいくらでもあり、わざわざヒ素に結びつける根拠は薄いと思われます。
島津斉彬がもっと長生きしていたら薩摩藩どうなっていた?
島津斉彬は死亡した時にはすでに、日本近代化のための人材や指針を創り上げていたのではないでしょうか。大久保利通、西郷隆盛といった人材はすでにでき上がっていました。薩摩藩どころか、日本を動かせる人材です。
そして、斉彬が藩主として薩摩藩内で興した産業化もそのまま、進められます。やがてそれは日本全体の資産ともなるものです。歴史のIFはいろいろな想定ができます。しかし、その後の歴史の流れはのレールは既にできてたのではないかと思います。島津斉彬が生きていても、彼は自分の育て人材に先を委ねたのではないでしょうか。であれば、歴史の流れはさほど変化が無かったのではないかと思います。
幕末ライター夜食の独り言
島津斉彬の死因を暗殺とするのは「説明」や「仮説」でならできないことは無いかもしれません。しかし、他の歴史ミステリーの題材としてなるような「本能寺の変の黒幕は誰だ?」とか「龍馬を暗殺したのは誰だ?」というようなレベルで人の興味を惹くものでもないと思います。
たまたま、死のタイミングが政敵に都合が良かったというだけであり、もし本当に「暗殺」の疑いが当時の時点で濃厚であれば、もっと大きな騒動が起きていたかもしれないのです。また、久光は兄の死後に野望をむき出しにして動いたというようなこともありません。たまたま、偶然死んだタイミングがあまりにも、政敵に都合よすぎたということだけです。
そもそも、江戸時代は医療技術が未発達で、現代に比べ普通に人が死にやすい時代だったのです。それは大名であっても同じです。今の基準で人の死を不自然と語るのも無理があるかもしれませんね。
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