幕末時代を大きく動かし近代日本の礎を創り上げた大久保利通、西郷隆盛。維新の三傑と称される人物のうちのふたりです。このふたりは、もしかしたら歴史の中にうずもれていたかもしれなかったかもしれません。ある人物が歴史の表舞台にでてこなかったとしたら――
薩摩藩主・島津斉彬という天才的な藩主の存在が、もしなかったとしたら――260年年続いた江戸時代、幕藩体制の中、多くの藩が日本に存在しました。その歴史の中で最高の名君で天才藩主という評価もある人物。島津斉彬(しまづなりあきら)の実績、その人物像に迫っていきます。
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西洋オタクの曽祖父のお陰で蘭学にハマる
島津斉彬は島津藩主を継ぐ存在でありました。しかし、藩主になるために、非常に障害となる部分を持っていました。とんでもない「西洋オタク」と思われていたのです。なぜ「西洋オタク」が藩主となるのに障害となるのか?
それは島津斉彬の曾祖父である第8代薩摩藩主・島津重豪のせいといえるでしょう。島津斉彬は「蘭癖大名」と呼ばれた曾祖父の第8代薩摩藩主・島津重豪の影響をもろに受けたのです。「蘭癖大名」とは今風に言えば「西洋オタク」ですね。重豪はオランダの文献にまで名を残すほどの「蘭癖大名」っぷりを見せます。西洋の文物の凄まじい収集を行うのです。これは、ものすごいお金がかかる行為です。
西洋から入ってくる文物は異常に高価だからですね。しかし、島津重豪は薩摩藩の財政が傾こうが関係なしです。完璧な西洋オタクとしての道をまい進します。その西洋の文物コレクションは凄まじいものとなります。家臣からすればトンデモない存在なわけです。島津重豪は500万両(現代の貨幣価値で5,000億円相当)の借金を作ります。その「ザ・西洋オタク」である島津重豪から可愛がられたのが島津斉彬です。
当然のことならが影響を受けます。西洋文明に興味津々です。オタクが新たなオタクを生み出すのは、現代もよくあることですね。それはすでに江戸時代に起きていたのです。島津斉彬の西洋文明への興味はどんどん深まります。そして、島津重豪は島津斉彬をシーボルトに会わせるなど、西洋オタクへの道へ突き進むようなことをやります。幕末の天才藩主・島津斉彬はこうして創り上げられていきます。一方でその西洋オタクぶりは薩摩藩上層部に警戒されるのです。ちなみに、シーボルトは幕末に日本にやってきて日本の医学に貢献した医師・科学者であり、日本をヨーロッパに紹介した歴史上の重要人物です。
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散財を恐れた父斉興との間に確執が・・
本来もっと早く薩摩藩を継ぐはずであった、島津斉彬が薩摩藩主になったのは43歳です。普通であれば、とっくに父親が家督を譲っていなければおかしい年齢です。なぜこんなにも、藩主の座に就くのが遅れたのか。それは、曾祖父の影響を受けた「蘭癖」、つまり西洋オタクの部分が、徹底的に警戒されたのが原因です。
薩摩藩は、家老・調所広郷(笑左衛門)が借金500万両を無利子返済250年という、無茶苦茶な条件を債権者に飲ませます。これで、なんとか島津藩の財政は立ち直ります。泣いた人がいっぱいいたでしょうね。薩摩藩の上層部は、当然この状況を知っています。そして、島津斉彬の「蘭癖」を警戒します。
凄まじい借金をまた作りかねない存在と恐れられたのです。天才は中々理解されないものです。父であり藩主の島津斉興も当然、そんな息子に家督を譲る気はないです。元々、島津斉彬は江戸に住んでいた期間が長く父・島津斉興と仲が悪かったともいいます。薩摩藩上層部は「財政を危うくするリスク満載」である「西洋オタク」の斉彬ではなく彼の弟の久光を藩主にすべく動き出したのです。そして、島津家の後継者争いとなる「お由羅騒動」を引き起こすのです。
アヘン戦争に衝撃を受けて富国強兵を決心する
幕末時代、西洋に目を向けていた人は意外に多いのです。その中でも島津斉彬は傑出した存在でした。西洋情報を集め、各国の動きを可能な限り集めていました。そして起きたのが1840年のアヘン戦争です。これは東アジア国際情勢を揺るがす大事件でした。イギリスは清(中国)との貿易で膨大な赤字を出していました。その赤字を解消するためインド産のアヘンを清に輸出するという政策を行います。
アヘンは医療などで、真っ当に使われることもありますが、その多くは、アヘンを吸って廃人になっていくアヘン中毒者を生み出す「麻薬」であったわけです。清の政府はこの事態を重く見て、イギリスのアヘンの在庫を焼き払うという行為にでます。イギリス内部では、清に対する強硬派とアヘン輸出に対する道義的な反対者が対立します。しかし、強硬派が議会でギリギリの勝利をおさめ、清との戦争に突入するのです。イギリス人が「自分たちの歴史の汚辱」と呼ぶ戦争の始まりでした。東洋最強・最大と思われていた清と西洋文明の最先端を走っていたイギリスの戦争です。
結果どうなったのか――清はイギリスにボロ負けです。これには、日本も驚きます。幕府上層部も震え上がる事態です。そして、西洋文明への理解が深い島津斉彬は、明確に西洋文明の軍事的な優越を認識します。それは、薩摩藩だけではなく、日本国の存亡にすら関わる事態であることを、天才・島津斉彬は理解するのです。
藩主就任、怒涛の開発ラッシュ!
薩摩藩のお家騒動「お由羅騒動」は幕府の介入で終息し、1851年に島津斉彬は藩主となります。ついに天才藩主・島津斉彬が歴史の表舞台にでたのです。江戸時代では高齢者といえる43歳で藩主となった島津斉彬は怒涛の改革、開発ラッシュを行っていきます。その代表的なものが「集成館事業」と呼ばれるものです。西洋の技術をガンガン取り入れ、近代工場群の建設を開始するのです。この時代、最重要の兵器は「大砲」と考えられました。
アヘン戦争でも、大砲による火力の差が勝敗を決定づけたのです。そして近代的な大砲を作るには、高度な技術と鉄が必須です。「集成館事業」では大砲製作に必須の鉄を創りだすための反射炉の建設が進みます。そして、鎖国政策により、大きく後れをとっていた外洋船の建設が可能な造船業も推進します。和船は一時期批判を浴びたような「遅れた技術」の船ではないのですが、あまりにも「国内の輸送に特化」した船であり、西洋の軍船に対抗できるものではなかったのです。「集成館事業」は製鉄業、造船業だけではなく、多くの産業の育成に取り組みます。電気通信技術の開発も開始します。
当時の国内一の蘭学者であった緒方洪庵の率いるグループに電気の本翻訳をさせます。そして電信通信の試作を行い、1856年に、江戸で電信通信実験を成功させました。更には銀板写真技術も研究開発し「印影鏡(いんえいきょう)」と名付けたカメラも作ります。斉彬の姿は日本人の手により初めて銀板撮影された写真となります。島津斉彬の姿は重要文化財として現在まで残っているのです。
衆議一致(合議制)の政治体制を目指した斉彬
江戸幕府を頂点とする幕藩体制を維持し、西洋諸国に対抗するのは無理である。これが、天才藩主・島津斉彬の結論であり、大久保利通、西郷隆盛に引き継がれる「近代国家」の在り方の基礎になりました。ペリーの黒船来航以来、日本の大きな課題はいかにして外国勢力に対抗するかということでした。島津斉彬は討幕までは考えませんでした。
彼は薩摩藩を中心とした「雄藩連合」による衆議一致(合議制)による政治体制を模索します。当時江戸幕府の権力を握っていた老中・阿部正弘も対外情勢の分析に関しては切れ者でした。西洋技術を導入し、強大な力をつけつつある薩摩藩の力を利用する方向を模索するのです。その流れの中で公武合体政策が生まれます。島津斉彬は、義理の娘とした篤姫を将軍の正室に送り込むなど、幕府内部に薩摩藩の影響力を浸透させ、薩摩藩主導による雄藩連合体制での改革を目指すのです。しかし、それは徳川直参、生粋の徳川家信奉者である井伊直弼が大老に就任するに至り頓挫することになりました。関ヶ原以来の因縁めいたものを感じます。
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西郷隆盛、大久保利通 幾多の人材を発掘した目利き
薩摩の天才藩主・島津斉彬は43歳で藩主となり、急死するまでの7年間で怒涛の開発を行い、薩摩藩を幕末最強の政治勢力にしていきます。幕府との関係を強め、外様である薩摩藩が幕政に食い込むまでに至ります。その政治手腕と合わせ見逃せないのは彼の人材発掘能力です。西郷隆盛も大久保利通も、島津斉彬がいなければ、歴史の表舞台に出ることは無かったでしょう。
そして、斉彬の怒涛の政策は、彼の死後も引き継がれていきます。近代日本を創り上げ、外国勢力と対抗するという根本的な方針は、西郷隆盛、大久保利通の核となり、その指針を示すものとなったのです。斉彬の死後も、その方針は堅持されます。彼の死後藩主となった久光の息子であり、斉彬の養子であった島津忠義は斉彬のような天才ではなかったかもしれません。しかし、薩摩藩の方針は、斉彬の残し人材である西郷隆盛、大久保利通が実権を握り、近代国家日本の建設に進んでいくのです。
忠義が無駄に権力欲を発揮して自身で幕政を握ろうとしなかったことは、薩摩藩だけではなく、その後の日本にとっても大きなプラスでした。斉彬の後を継いだ島津忠義は何もしないことで、大きな事を成し遂げたのかもしれません。
幕末ライター夜食の独り言
西洋オタクで天才的な政治能力を持っていた島津斉彬は43歳で藩主となりました。その前に、薩摩藩は「お由羅騒動」という後継問題を起こし幕府に介入されました。これは一歩間違えれば薩摩藩の存続にすら関わる問題だったのです。家督相続の問題は、当時の幕藩体制の中、天才藩主・島津斉彬にとっても大きな問題として心の中に刻み込まれたでしょう。
だからこそ、弟の久光の息子、忠義を養子として後継者候補に組み込みます。このとき、斉彬の息子はまだ存命でしたが、幼くして亡くなってしまうのです。江戸時代の医療水準では、幼児の死亡率は現代とは問題にならないほどに高かったのですから、それは十分に想定される事態でした。斉彬は忠義を養子とし、忠義を養子後継者とすることを遺言で残しています。このような対応も、お家騒動から学んだ、後継問題にまつわるゴタグタを回避する方法だったのでしょう。島津斉彬は、自分の死後のことまで、手抜かりの無かった天才・藩主でした。
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