島津斉彬は辞世の句を残しているの?

2018年2月20日


 

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島津斉彬は子どものころから「二つビンタ(頭)」といわれるように

「頭脳がふたつある」というような異名もった天才だったようです。

しかし、その生涯は決して順調なものではありませんでした。

天才的な頭脳を持ち、時代に要求される知識を身に着けていた島津斉彬が藩主になったのは43歳です。

父であった斉興との不仲。

その間起きた「お由羅騒動」という薩摩藩主の跡継ぎ問題。

そして「暗殺」の噂まで出る唐突な自身の死と、子どもたちの相次ぐ死。

政治家、藩主としては稀有の存在でありましたが、その人生は果たして幸福であったのか。

今回は彼の辞世の句を取り合上げ、「人間」としての島津斉彬について考察していきます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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不幸の多い家庭人としての斉彬

 

まず、島津斉彬の生い立ちは他の大名と異なります。

普通の大名であれば乳母が子どもを育て、実母は子育てには関与しないものです。

しかし、島津斉彬の実母である弥姫は、自ら乳を与え、そしておむつを取り替え、

更には幼少期には基本的な和漢の教育すら行っています。

このような実母との結びつきの強さと、

教育が天才・名君である島津斉彬の基礎を作ったのでしょう。

そして、その懐の深さも実母の影響が大きかったと思います。

そんな彼ですが、自分の家庭では恵まれませんでした。

その母は16歳で亡くし、多くの子をなしながらも、娘3人を除き全て成人前に亡くしています。

当時の医療水準が低いとはいえ、親が実子を失うという不幸、

悲しみは今となんら変わらない物でしょう。

その悲しみの中、島津斉彬は、時代を動かしていくのです。

 



お由羅一派を殺害しようとする西郷一派に斉彬は

 

島津斉彬と父・斉興は、琉球(沖縄)を起点とする貿易の方針で決定的に対立します。

斉興は、朝廷から送られる位を高くしてほしいと思っていました、

ここで、財政が危うくなるような積極的な交易や、理解不能の西洋文明導入は避けたかったのです。

斉興は琉球にやってくる外国船に呪詛をかけます。当時の人ですから、それも攻撃です。

この呪詛の噂がねじ曲がって、

お由羅方が斉彬や息子を呪い殺そうとしたという噂がかけめぐるわけです。

こうして、呪詛合戦が始まります。

そのときに呪詛の史料は今も鹿児島県資料センターなどに残っています。

実際に史料を詳細にみていきますと、お由羅方や久光はなにもしていない可能性が高いのです。

完全に父子の争いのとばっちりを受けたという感じです。

騒動が終息して冷静になった島津斉彬は、お由羅方は呪詛などしていないという結論に至ります。

しかし、それを信じなかったのが、斉彬に抜擢され、心酔していた西郷隆盛です。

西郷隆盛にしても、複雑な人間関係までは分かりようがないので、

このような誤解を持つのはしかたがなかったでしょう。

しかし、島津斉彬は、西郷隆盛を叱責します。

島津斉彬は、真実がどうであったのかときちんと見極める目をもっていたのでしょう。

 

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異母兄弟の久光を認めていた斉彬

 

島津斉彬が決定的に対立していたのは、父の当時藩主であった島津斉興でした。

現在も残っている史料でも親と子の中の悪いことが明らかな文書がみられます。

とにかく、島津斉彬からすれば、朝廷の位が欲しくてたまらないだけの父親は、

ケツの穴の小さい小物に見えていたようです。

その一方で、父である島津斉興から斉彬を見れば、西洋狂いの、

財政破たんをさせかねない危険な跡継ぎにみえたのでしょう。

琉球(沖縄)貿易は薩摩藩にとっては、非常に微妙でやっかいな部分ももっていました。

財政立て直しをした調所広郷は、密貿易の罪をかぶって切腹して果てていました。

そのような背景があり、父子は琉球(沖縄)を

窓口とした交易に関しても意見を激しく対立していたのです。

一方で、島津斉彬は異母弟の久光を高く評価していました。

お由羅騒動後も久光を評価する書面を残しています。

そして、自分がいないときに外国船が来たら、久光に全てを任せよと部下に命じているのです。

そこまで、久光を信じていたのは、彼もまた優秀な人物であったということでしょう。

実際に、島津斉彬の死後、そのことが証明されるのですから。

   

斉彬はどうして久光の子を後継者にしたのか?

 

島津斉彬は、最後の男子である哲丸が生きているときに、

久光の長男である又次郎(忠義)を養子に迎え入れます。

後継者として弟との息子を選び、自分の息子をその養子とするようにしたのです。

男性の場合、かなり高齢になっても子を成すことが生物的には可能ですが、

島津斉彬はこの時点で、異母弟の久光の息子を完全に後継者としてしまうのです。

その理由は、やはり親子が争った経験が斉彬にとっては苦い思いになっていたのではないかと思います。

斉彬は近代化、富国強兵の先駆者でもありましたが、人の和を非常に重んじました。

島津家の団結、薩摩藩の団結を考えた場合、優秀な久光を後見人として、

その息子を養子にする。更に自分の抜擢した人材で周囲を固めることで、

体制を盤石なものとしたのでしょう。

人の和を創るためにはそれが最良であったのです。歴史の流れが証明しています。

 

島津斉彬の遺言状はどんなもの?

 

島津斉彬の遺言状とは以下のようなものです。

 

一、弟久光の長男又次郎を継嗣とする。

一、又次郎は斉彬の女暐姫の婿養子とする。

一、斉彬の世子哲丸は幼少であるので、又次郎の順養子としたい。

 

島津斉彬は、自分で釣った魚を食した後で急死しています。

原因はコレラという説や、この時期の薩摩にコレラが流行っていなかったことから、

生魚を食べたことによる腸炎ビオブリオではないかという説もあります。

ただ、自身の死期が近いのではないかということで、斉彬は上記のような遺言を残したのです。

斉彬は、久光も後継者として、候補にいれていましたが、久光が辞退しました。

そして、後継は久光の息子である又次郎(忠義)となります。

島津家の団結を考えると、これが最良の手段であったのではと思われます。

当時の内外の情勢はめまぐるしく変化し、後継問題で藩が揺れるなどは、

絶対に避けるべきだと考えたのでしょう。

理路整然として、争いの余地のない遺言ではないかと思います。

 

島津斉彬辞世の句とは?

 

薩摩藩に西洋の文明、技術を取りこみ、

強大な軍事力をもった雄藩薩摩を幕末に出現させた島津斉彬ですが、

彼が最も重視したのは「人の和」でした。

確かに大砲を整備し、軍備を近代化しなければ、

弱肉強食の世界情勢の中で日本が生き残る道は無かったでしょう。

しかし、彼は軍備の近代化、富国強兵を主張しながらも

「人心の一致一和は、政治の要目なり」という言葉を残しています。

彼の辞世の句とされる言葉です。

また彼は幕府に対する建白書の中でも「第一人の和、継諸御手当」とし、

富国強兵の主張を二番目に位置づけました。

人の和があり、人々が豊かにならねば、

軍備をいかに強化したところで意味のないとこが分かっていたのでしょう。

どのよう軍備であれ、武器であれ最終的にそれを支えるのは人の手なのですから。

そして、本当に守りたい国、豊かな国でなければ、誰も戦うわけがないことも知っていたのです。

 

幕末ライター夜食の独り言

 

実母により教育を受け、その実母は斉彬が16歳の時に亡くなります。

そして、父との決定的な不仲。

更には、跡継ぎ問題に発展する「由羅騒動」を経験し、次々と我が子を失います。

人間・斉彬は決して幸福に満ちた生活をしていたとは思えません。

しかし、そのような中でも、時代は彼を必要としていましたし、

彼も時代を動かし、薩摩藩を超え、日本の近代化を目指す指針を示そうとしました。

あまりに、凄まじく早い動きに、薩摩藩の内部、

重臣たちにもその考えを十分に伝えきれないという部分もあったのでしょう。

西郷隆盛が「由羅騒動」の後に、お由羅の方の処罰を求めたのもその事例でしょう。

今と違って情報を共有するのは、すごく難しい時代であったのだと思います。

個人としての苦悩を抱えながらも、人の和を重視し、最善の手をつくし、

彼は近代日本の指針を示していったのだと思います。

「西郷どん」で注目が集まりまる島津斉彬ですが、

ドラマを入り口にしてもっとこの人物について知りたいと思う人が増えて欲しいと思います。

 

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