(画:ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール)
近代のカメラの歴史は1839年にフランスのダゲールが
銀板写真を発明したところからスタートしたといえるでしょう。
この銀板写真に島津斉彬は出会います。
それは、島津斉彬が世子だった時代でした。
西洋文明に強い興味を持っていた斉彬は写真の魅力に取りつかれます。
そして、日本人の手でカメラ、写真機を創ろうとするのです。
つまり、日本におけるカメラの歴史は、島津斉彬によって始まったと言ってもいいかもしれません。
そして幕末時代には多くの人が写真に魅了されます。
その中には有力な大名も含まれるのです。
今回は、島津斉彬とカメラの関係、幕末のカメラ事情についてスポットを当ててみましょう。
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この記事の目次
日本人が撮影した最古の写真は斉彬の顔だった!
(画:島津斉彬 wikipedia)
さて、カメラの歴史をずっと過去まで遡ってみましょう。
すると紀元前までカメラの歴史は遡れるのです。
カメラの起源としては「カメラ・オブスキュラ」まで行きつきます。
紀元前、暗室に小さな穴をあけ、そこに光を通すと外の風景が壁に映ることが発見されていました。
そして、次第にその仕組みは小さくなり、
やがて映し出した風景を画家が写生する道具として発展していきます。
しかし、まだまだ「カメラ」とはいいきれないものですね。
カメラがカメラらしくなったのは1826年のニエプスの発明からでした。
光に当てると化学反応で色が変化する物質を利用したカメラの始まりです。
最初はアスファルトです。
そして、島津斉彬が出会った銀板写真の時代がやってきます。
カメラがようやくカメラらしくなった時代であったといえます。
島津斉彬がカメラの研究を始めたのは1849年頃です。
カメラ研究班を編制させる島津斉彬
斉彬は薩摩藩内に「カメラ研究班」を編制します。
そして銀板写真のカメラの研究を自ら指導していくのです。
そして、化学知識も十分でない中、8年の歳月を要してカメラを完成させます。
島津斉彬は自らモデルとなりました。島津斉彬の肖像写真は、
日本最古の写真として今でも残っています。
最初に日本人の手によって作られたカメラに映った日本人は島津斉彬でした。
島津斉彬はカメラをどうやって手に入れた?
島津斉彬が銀板写真によるカメラを入手したのは、
オランダ商品を扱う御用商人であった上野俊之丞からの献上であったと伝わっています。
島津斉彬はまだ家督を譲られず、薩摩藩世子であったときです。
西洋文明、技術について興味を持っていた
島津斉彬がカメラという機械に夢中になったのは、想像できます。
日本には全く存在しない機械なのですから。
島津斉彬は、薩摩藩内で研究を主導し、
自身がモデルとなり日本初のカメラ撮影に成功するわけです。
幕末時代、西洋から入ってくるカメラという機械を入手できる層はやはり、大名が中心でした。
日本のカメラの歴史は、島津斉彬を起点として大名たちの間に広がっていくことで、発展していきます。
島津斉彬だけではなく意外に幕末期の殿様たちは、新しいモノ好きだったのでしょう。
ビックリ!徳川斉昭も島津斉彬の写真仲間だった
幕末時代の大名に間で、カメラが静かなブームとなっていきます。
その中には徳川御三家・水戸藩の藩主である徳川斉昭もいました。
カメラと徳川斉昭の組み合わせです。
彼の思想は尊王攘夷の結晶体で、攘夷の巨星ともいえる存在です。
その徳川斉昭が西洋の科学技術が生み出したカメラに夢中だったという事実は何か面白いものです。
西洋人は大嫌いだけと、カメラは大好きだったわけです。
後の日本人も、鬼畜米英といいながら、アメリカの生み出した「野球」が大好きでしたし、
戦地では戦利品だった「アメリカ映画」を上映して楽しんでいたという事実もあります。
心に棚を作り、思想信条は後回しにして、
楽しそうな発明品は評価するというのは、日本人の特質なのかもしれないですね。
尊王攘夷の結晶体・徳川斉昭は、
島津斉彬の薩摩藩に家臣を送り込んでカメラ技術を学ばせるほどカメラにのめり込こんでいました。
島津斉彬も「鏡ニヨヂューム(沃素)之気ヲウケサセ云々……」というカメラマニア丸出しの
「ニヨヂューム(沃素)」という化学用語を使った書面を徳川斉昭に送っています。
もはや、それはカメラマニアの文通以外のなにものでもないですね。
徳川斉昭には「攘夷どこへ行った」と突っ込みたくなります。
家族写真の元祖 娘達を撮影した斉彬
島津斉彬はなぜ写真にのめり込んでいったのでしょうか。
カメラは確かに西洋科学のひとつの真髄ではありますが、
明治期に入っても写真を気味悪がる日本人も多かったのです。
ポイントは島津斉彬の家族への思い出はなかったでしょうか。
島津斉彬は、非常に家族を大事にしました。
家庭的には恵まれない面がありました。
最愛の実母を16歳で亡くし、父とは不仲であり、
子どもは娘3人を残し成人することなく死を迎えています。
斉彬は写真に対し「父母の姿をも百年の後に残す貴重の術」という言葉を残しています。
彼にとって大切な家族の姿を残す技術であったというのも、
斉彬が写真にのめり込んだ理由かもしれません。
実際、島津斉彬は娘たちの姿も自分が作り上げた日本人の手によるカメラで撮影しているのです。
島津斉彬は、カメラの力で、最愛の娘たちの姿を永遠の中に焼き付けたかったのではないかと思います。
島津斉彬を超えた写真好き徳川慶勝
幕末時代、日本のカメラの歴史を切り開いた薩摩藩主・島津斉彬。
そして、彼からカメラを学ぶほどにのめり込んだ徳川斉昭。
西洋人が大嫌いなのに……。
この時代大名によってカメラの技術は発展していくのです。
その中でも、島津斉彬を超えたカメラ好き、写真大好きな大名が徳川慶勝でした。
徳川慶勝は、養子として尾張藩に入り藩主となります。
政治手腕、軍事指揮官としても高く評価され、
第一次長州征伐では指揮官として、寛大な処置で長州藩を降伏させています。
慶勝は、銀板写真よりも進化した湿版写真を研究します。
その写真研究の成果は、徳川御三家筆頭の力を徹底的に注ぎ込んだ結果です。
凄まじい点数の写真を今に残し、日本のカメラの歴史に名を刻む殿様となるのです。
しかし、後に第一次長州征伐の指揮官まで務め、
藩政改革でも結果を残した優秀といっていい藩主であった慶勝に
なぜそんな趣味に没頭する時間があったのでしょうか。
それは、大老・井伊直弼との対立が原因でした。
慶勝は、井伊直弼と対立します。
日米通商修好条約を朝廷の勅諭なしで結んだ井伊直弼を詰問します。
彼は尊王思想の持ち主だったのです。
井伊直弼は、とにかく乱れたこの世を立て直し、
徳川の世を支えるのが自分の使命であると思っています。
彼にとって尊王思想は徳川幕府を脅かす思想なのです。
その結果、井伊直弼は反対派を容赦なく処罰していきます。
これが「安政の大獄」と呼ばれるものです。
そして、御三家筆頭である尾張藩主・徳川慶勝までも蟄居、謹慎となり、
家督を息子に譲ることになってしまいます。
しかし――
この処罰のおかげで、慶勝はたっぷりとカメラにのめり込む時間を得ることができたわけです。
その趣味に没頭する季節は、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺され、
政治の流れも変わり、慶勝の謹慎が解けるまで続いたのです。
決して長い年月ではありませんでしたが、その間に残した写真の膨大な数々は今も残っています。
島津斉彬は写真好きなのに西郷隆盛は何故写真嫌いなのか?
幕末時代から明治維新にかけての人物の写真は数多く残っています。
坂本龍馬の有名な写真や、インパクト抜群の岩倉具視の写真なども現代の私たちは見ることができます。
しかし、絶対に写真撮らない。写真大嫌いという幕末の有名人もいました。
NHK大河ドラマ「西郷どん」の主人公である西郷隆盛です。
心酔する島津斉彬がカメラに没頭していますが、西郷隆盛は死ぬまで写真嫌いで通します。
大久保利通が暗殺された時に持っていた西郷隆盛からの手紙にも
「写真をあまり撮るな」と書かれていました。
なぜ、西郷隆盛は写真を嫌ったのでしょうか。
明治に入っても写真は「魂を抜かれる」と言って嫌う人がいました。
西郷隆盛が意外に迷信深かったのは、
お油羅騒動で「呪殺」を信じていたことが傍証になるかもしれません。
しかし、西郷隆盛が写真を嫌っていたのは、むしろもっと現実的理由があったのかもしれないのです。
写真は個人情報であり、それが敵勢力の手に渡れば「あれが西郷隆盛だ」と判別されます。
軍事指揮官としての安全を確保するため、写真を撮らなかった可能性もあります。
幕末ライター夜食の独り言
幕末時代から明治維新に向け、時代を変えていった中心は下級武士でした。
封建制の中で利益を享受していた層ではありません。
それ故に、江戸時代の大名といえば、どうしても封建的であり、旧守的であり、
西洋人など神州に上げてたまるかといった思想の持ち主が多かったような気がします。
島津斉彬や、徳川慶勝などがカメラにのめり込んだのは、まだ理解できるのです。
しかし、徳川斉昭という存在がカメラにのめり込んでいたというのは、
何とも可笑しみを感じてしまいます。
西洋人大嫌いの攘夷精神の塊みたいな大名が、西洋文明の作り上げたカメラに夢中になっている。
この図式を思いうかべるだけで笑えます。
日本人はやはり新しいもの好きで、新規な機械が大好きな民族なのではないかと思うのです。
大名も例外ではなく、その思想とか精神を棚に上げて、
珍しい機械があると夢中になってしまうという人も多かったのでしょう。
そのような、精神も日本人が持っていた大きな武器で、
日本が非西洋諸国の中で唯一自力の近代化を成し遂げた理由のひとつであったのかもしれません。
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