徳川慶喜の功績って一体何があるの!?

2018年3月5日


 

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徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)

鳥羽伏見(とばふしみ)の戦いに敗北後、

大阪城に残った味方の軍勢を置き去りにして逃亡した将軍として知られ、

卑怯者だとか臆病者とか言われている将軍です。

さてこの卑怯者や臆病者と言われる徳川慶喜が残した功績とは一体何があるのでしょうか。

 

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徳川慶喜の功績とは

 

徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜は一体どのような功績を残したのでしょう。

それは大政奉還を行った事、民衆を戦火から救ったこと、

国内統一に貢献した事の三つの功績があると言えるでしょう。

では徳川慶喜が残した三つの功績をご紹介しましょう。

 

徳川慶喜の功績その1:大政奉還

 

徳川慶喜の功績その1としては大政奉還を行った事と言えますが、

大政奉還とは一体何なのでしょうか。

ここで簡単にご紹介しましょう。

 

大政奉還とは徳川幕府が持っていた日本の行政権を天皇へ返したことです。

そして大政奉還を行った事で倒幕派の矛先をうまく回避する政策です。

倒幕派の人々は徳川慶喜がこのような方法で、

幕府を倒すことができなくなった事を知ってビックリしたそうです。

 

また徳川慶喜はこの政策を行った事後も日本の行政を代理で行う事ができ、

幕府や倒幕派の勢いを削ぐことができました。

頭が良く、決断力に富んだ徳川慶喜が残し得た功績の一つと言えるでしょう。

 

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徳川慶喜の功績その2:戦火から民衆を救った!!

 

徳川慶喜の功績その2としては、戦火から民衆を救ったことでしょう。

慶喜は鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗北すると江戸に向かって逃亡し、

ひたすら倒幕軍に逆らわない姿勢を貫きます。

慶喜は倒幕軍に逆らわない姿勢だけでなく行動に移します。

 

慶喜が取った行動は倒幕軍に抵抗しない意志を見せるため、

勝海舟(かつかいしゅう)達に徳川幕府の今後を託します。

そして慶喜は上野のお寺へ謹慎する事で、表舞台に出ないようにし、

倒幕軍に逆らわない姿勢を見せます。

 

慶喜から後を任された勝海舟は、

東海道からやってくる倒幕軍の総大将・西郷隆盛(さいごうたかもり)と交渉して

江戸城を明け渡す交渉を行い、江戸城明け渡しに成功。

こうして江戸城や江戸の町は倒幕軍の攻撃に遭うことなく、接収されることになるのです。

そして倒幕軍の攻撃を受けなかった事で江戸に住んでいた大勢の民衆は、

戦火に巻き込まれず明治の世を迎えることができたのです。

 

もし徳川慶喜が

「俺はまだ負けてねーぞ!!西郷隆盛がなんぼのもんじゃ!!明治政府かかってこいや!!」と言って

倒幕軍と戦う事になっていれば、江戸の町は戦火によって焼けてなくなっていたでしょう。

また江戸に住んでいた大勢の人々は、戦に巻き込まれないようにするため、逃亡していたでしょう。

 

また戦火で焼け野原になった江戸は復興するのに相当な時間がかかったはずで、

明治の首都が東京になる事なく、京都のままだったと思割れます。

さらに妄想を繰り広げれば、現在の日本の首都は東京ではなく京都になっていたかもしれません。

このように考えると慶喜が残した功績はかなり大きいと思います。

 

徳川慶喜の功績その3:国内統一に貢献!?

 

徳川慶喜の功績その3としては明治政府の国内統一に貢献した事ではないでしょうか。

もし徳川慶喜が明治政府に従わずに抵抗を続けた場合、

国内が統一されるまでにかなりの時間がかかったと思われます。

 

そして国内の統一に明治政府が手こずれば、

薩摩藩に力を貸していたイギリスや日本に開国を迫ってきたアメリカ、

不凍港が欲しかったロシアなどの諸外国から国内内戦に介入され、

日本の国土の所々が外国の植民地になっていたかもしれません。

 

そうなれば明治政府の統治する日本の領土は少なかった可能性が有り、

明治政府が国内の統一をすることがかなり難しい状況になっていたかもしれません。

上記のような可能性を考慮すると徳川慶喜が明治政府に抵抗する意思を見せなかったおかげで、

明治政府が国内の統一が容易に行われたと考えることが出来るのではないのでしょうか。

   

徳川慶喜のその後

 

徳川慶喜は幕末において上記の功績を残した後、

将軍の位から引退し、謹慎生活をすることで明治政府に逆らわない意向を示します。

明治政府も徳川慶喜に対して厳しい処罰を与えませんでした。

 

さて明治政府の時代に慶喜は一体何をしていたのでしょうか。

徳川慶喜は明治時代、趣味に没頭していたそうです。

彼の趣味はかなり多岐に渡り、狩猟、弓道、乗馬などアウトドアな生活を行っていましたが、

外で体を動かすだけでなく、家の中でも常に何かをしていたそうです。

例えば刺繍、囲碁など家の中でもできる趣味をしていました。

徳川慶喜はこうして将軍の位を引退して、一般時になってから趣味に没頭し、

達人クラスにまで極め、毎日を充実しながら生活していたそうですが、

大正二年に肺炎で亡くなったそうです。

 

三国志ライター黒田レンの独り言

 

今回は徳川慶喜の功績を調査してみました。

徳川慶喜は時勢を見る目を備え、頭のいい将軍だったと思います。

さらに趣味を多く持ち、その趣味のほとんどを極めたそうです。

このことから幕末じゃなく徳川幕府の中期の将軍だったら、

徳川慶喜の評価はかなり違っていたと思います。

 

もし江戸中期の将軍だったら家康を超えるスーパー将軍とか呼ばれていたかもしれません。

皆様は徳川慶喜の功績を思い浮かべ、どのように彼を評価しますか。

 

参考文献 吉川弘文館 徳川慶喜 家近良樹著等

 

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