篤姫の実家今和泉島津氏はどんな家柄?今和泉家に里帰りした事がある?

2018年3月8日


 

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篤姫(あつひめ)の実家である今和泉島津氏は、薩摩藩主・島津家の分家です。

その歴史は長く鎌倉時代までさかのぼりますが、その家の歴史は一度断絶しているのです。

今和泉島津氏が再興するまで、室町初期の南北朝時代から江戸時代までの長い歳月がありました。

江戸時代に入り、島津本家の分家として「一門」と呼ばれる名門の家柄になるわけです。

これは、徳川家における御三家や御三卿のようなものです。

復興された篤姫の実家である名門・今和泉島津氏にどのような歴史があったのか?

今回はそこに焦点を当ててみましょう。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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篤姫の実家今和泉家はどんな歴史があるの?

 

篤姫は、島津本家に連なる名門である今和泉家に生まれました。

そして、島津斉彬(しまづ なりあきら)の養女となり将軍家に輿入れします。

それは、薩摩藩藩主・島津斉彬と徳川家で実権を握っていた

老中・阿部正弘(あべ まさひろ)の目指す改革の駒として使われるものでした。

さて、その篤姫の輿入れは、将軍の後継問題に薩摩藩が影響力を発揮させるためであったと言われています。

将軍の正妻が薩摩藩とつながりがあれば、それはかなり政治的に影響力を持ちますね。

かつての藤原摂関家みたいな感じですね。

そして、そのとき将軍家に送り込める年頃の娘がいたのが

島津家「一門」であった今和泉家だったのです。

今和泉家は、鎌倉時代までその歴史をさかのぼりますが、南北朝時代の騒乱の中で断絶しています。

これを復興させたのが、江戸中期の薩摩藩主・島津豊継です。

弟の忠郷を家主として、今和泉家を再興させました。

そして今和泉家は幕末時代に篤姫を生みだすことになるのです。

 

今和泉家は島津家ではどの程度の家柄?

 

島津家には、「一門」、「御一門」と呼ばれる一族の家柄があります。

その中のひとつが今和泉家です。5つの家があるのですが、

断絶の歴史があるため、今和泉家は一番の新参であるといえます。

その家は、加治木島津氏、重富島津氏、垂水島津氏、

そして篤姫の実家である今和泉島津氏となります。

この中では加治木島津氏が筆頭とされており、

本家に養子を出し島津本家との繋がりも元も深い家となっています。

「一門」も島津家の家臣であることは、他の重臣の家と変わりがありません。

ただ、今和泉島津氏を含めた一門は徳川将軍にも謁見できる家柄でした。

篤姫が将軍家に輿入れするため、島津斉彬の養女に選ばれたのは、家柄の高さも理由ですが、

そのときに、年頃の「姫様」といえるような娘がいた家が今和泉家しかなかったのです。

斉彬も断絶していた今和泉家を再興させたご先祖に感謝したかもしれません。

 

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薩摩藩の一門宗今和泉家の領地はどれ位あったの?

 

今和泉家は一族で「一門」と呼ばれる存在ですが、島津家という大名の家臣です。

大名は1万石以上の領地を幕府から与えられた藩主を指します。

薩摩藩の一門宗今和泉家の領地は1万3000石~1万5000石はあったといわれます。

今の鹿児島県指宿市を中心に最初は3000石程度でしたが、飛び地が加増されて、

篤姫が生まれる幕末期には、大名クラスの領地を持つ家となっていたようです。

 

篤姫が幼少期を過ごした今和泉家の領地指宿とはどんな土地?

 

鹿児島県指宿市は温泉で有名です。その湯量は豊富で、街中、海の中まで湧き出ているという位です。

指宿市は錦江湾に面する海沿いの街です。

そして、西郷隆盛も湯治に来ていたことがあるという由緒ある温泉街です。

海の見える温泉街というのが、現代の指宿の姿です。

篤姫の故郷であった今和泉家の領地の中心が指宿市になります。

今和泉島津家別邸跡には、篤姫幼少期の銅像も立っており、観光名所となっています。

NHK大河ドラマ「西郷どん」にも登場する篤姫は、

以前も大河ドラマの主人公となりブームを起こしています。

今回も指宿市観光ブームが起きるかもしれません。

温泉も楽しめる観光都市が今の指宿市の姿ですが、

篤姫の時代から今も残る松林や石垣などの史跡もあります。

幼い日の篤姫の思い出を追体験できる街でもあります。

 

篤姫はどうして島津斉彬の養女になったの?

 

当時の日本はまず外国船が頻繁にやってくるなど、鎖国体制がかなり揺らいでいました。

そして、国際情勢に詳しい、当時の老中・安倍正弘は「海辺の大藩であれば、

このような事態に詳しいのではないか」と考えます。

そして、それに同調したのが薩摩藩の藩主・島津斉彬でした。

幕府としては雄藩の力を使い、幕府の屋台骨を強化することを狙いました。

また、薩摩藩の島津斉彬には外様大名として、

国政の外側におかれた立場から一気に国内権力の中枢近くまでのぼり、

日本の近代化を進めたいという考えがあったのです。

そこで、幕府との連携を強めるために、篤姫は徳川家に腰入りすることになります。

斉彬は15代将軍となった慶喜を次期将軍にしようとしたのです。

幕府の体制強化による国難への対応を狙った阿部正弘と、日本の開国、

近代化を挙国一致で行うべきと考えた島津斉彬の思惑が一致した結果、

篤姫は島津斉彬の養女となったのは島津本家出身という格式を整えるためでした。

   

篤姫は今和泉家に里帰りした事がある?

 

篤姫は徳川家に嫁ぐと、死ぬまで薩摩(鹿児島県)には戻りませんでした。

徳川家の一族として徳川家のために、動きました。

夫である家定が死んだあとは、仏門に入る形で天璋院と称し、大奥を掌握しました。

江戸城の無血開城に関しては、篤姫の尽力もあったと伝えられています。

また、勝海舟(かつかいしゅう)に薩摩に戻らないか?

と言われた時は「死ね」と言っているのと同じという言葉を返しています。

江戸時代の上流武士の女性にとって、家に嫁ぐとは今では考えられないような重みがあったのでしょう。

篤姫も徳川家のために生きます。

明治に入っても徳川家達の養育に貢献しました。

亡くなった時は3円しかもっていなかったと伝えられます。

清廉潔白な人物だったのでしょう。

そんな篤姫は、徳川家に関係する人たちから高く評価され、

そのお墓は、上野寛永寺の徳川家の墓の集まる霊園の中、夫である家定の隣に造営されたのです。

そして、生前、篤姫の好物であったビワの木がお墓の周りには植えられました。

 

幕末ライター夜食の独り言

 

篤姫の生まれた実家である今和泉家は、薩摩の中では名門の家です。

ただ、それは薩摩の中の話であり、なにかの巡り会わせで篤姫が、

徳川将軍家に輿入れしなかった場合、歴史の中で大きく扱われることもなったでしょう。

篤姫がドラマで取り上げられることで、出身地である指宿も観光で潤い、

経済効果的にも非常にいいことだなと思います。

 

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