黒船の来航に対し、時の老中首座・阿部正弘と林大学頭(林復斎)のコンビがペリーの圧力を跳ね返しました。ペリーが率いる黒船の来航に幕府はおたおたして何もできず。結果として幕府の権威が失墜したという話の流れが最近までの定説ではなかったでしょうか。
しかし、幕府は1年以上前から黒船が来ることを察知していたことが最近では徐々に知られてきています。そして、基本砲艦外交であり「戦争も辞さない」という方針でやってきたペリー率いる黒船に対し、戦争の口実を与えず論破したのは林大学頭(林復斎)です。通説では評価の低い黒船に対する幕府の対応ですが、本当にそうだったか、今回はその歴史的評価について焦点を当ててみました。
この記事の目次
阿部正弘はペリー来航に対して無策だったのか?
まず、黒船に対し書状を私にいった浦賀奉行の番船はまっすぐに旗艦であるサスケハナ号に向かっています。この事実ひとつを持っても、老中首座・阿部正弘を中心とする当時の江戸幕府中枢は慌てふためき、無能無策で対応したという反論になります。旗艦がどの船であることかが分かっていたのですから。
ペリー来航の情報は1年前から、阿部正弘は掴んでいました。そして浦賀周辺の警備を強化しました。しかし、そもそも現実の軍事力が違いすぎます。阿部正弘は朝廷、親藩、譜代大名、以外の大名までその他広く意見を求めていきます。しかし、ここで有効な策が出なかったのは確かです。しかし、その情報の分析は進めていたのです。
オランダ情報で条約内容と艦隊の数まで知っていた阿部正弘
当時日本が窓口を開いていた唯一の西洋の国はオランダです。そのオランダ商館長であるドンケル・クルチウスよりペリー艦隊の情報は掴んでいました。アメリカから来たというと、太平洋を渡ってきたイメージがあるかもしれませんが、ペリー艦隊はインド洋方面から日本に来ています。この航路も掴んでいました。
艦隊の規模も、その性能の大よそのとこともつかんでいたのです。そして、その要求の内容の詳細まで掴んでいました。この情報を長崎奉行は「デマ」であると主張しました。確かに似たようなデマ情報で踊らされた経験があったからです。しかし、阿部正弘は今回の情報の確度が高いことを見抜いたのです。そして、アメリカが隣国メキシコシティにまで攻め込み勝利した強力で獰猛な国家であることも知ったのです。
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武力をちらつかせるペリーの要求を聞き流す阿部正弘
ペリー率いる黒船は強力な武力を背景に日本を脅し、要求をのませるつもりであり、もしダメであれば武力的な衝突も辞さない覚悟でした。それはアメリカ合衆国の方針としてペリーに認められていました。そもそもペリーの黒船と日本では武力・軍事力が全く違いました。ペリーの率いる黒船には射程5.6㎞ほどの大砲が供えられ、実際に江戸中心部を捉えることが可能な距離まで迫ってきています。
その気になれば、臨海都市の江戸は砲火にさらされます。黒船の中でも小型のミシシッピ号でお大砲12門搭載、1700トン近い軍艦です。外輪式蒸気船です。それに対し、日本の船は、最大級の1600石船でも、150トン程度ですから、話にならないのです。まともに武力でこられれば、江戸は火の海でしょう。すでにアヘン戦争の情報は入っています。
そんな、圧倒的武力を背景にした相手に、全権交渉担当者となった林復斎はアメリカの主張を論破し、武力行動の理由を潰します。いくら圧倒的な武力があっても「正当(に見える)」理由がなくては、行動できないのは今も昔も同じです。
アメリカは日本が漂流民を助けないなど、人道に反する行為をしていると主張し、それにより攻撃の口実を作ろうとしました。林復斎は日本がアメリカ人漂流民を蝦夷地で保護していたこと、そもそも人道を無視した国家が300年の平穏な国家を創れるかどうかという反論を繰り出すのです。
アメリカは、最終的にモリソン号事件における砲撃を人道問題であると持ち出し、日本人が人道を軽んじたと主張しますが、林復斎はもう17年も前であり「じゃあなんで、人道を重視する貴国が問題を長く放置していたの?」と切り返すと、アメリカも反論できませんでした。林復斎の対応は頑迷で封建的な国際情勢が見えていないものの反論と評価されますが、実際にアメリカの攻撃の口実を封じてしまったのは、彼の交渉力だったのです。
阿部正弘はペリーの焦りを見抜いて通商条約を撤回させた!
ペリーの第一目標はまず捕鯨船の補給基地を得ることでした。産業革命により夜間も工場が稼働するようになると、その灯りとなる鯨油の需要が激増したのが原因です。
そして、あわよくばアジア貿易の拠点を得ることも考えていました。ただそれは、二次的な目標でもあったのです。中国市場でヨーロッパ諸国に出遅れていたアメリカは、アジアに拠点が欲しかったのは事実ですが、それを焦ってしまうと他国にアメリカの動きが露見します。
それは、利害の対立を生むことであり、他のヨーロッパ諸国の動向もにらみながら、ペリーは動かざるを得なかったのです。つまり、ペリーとしてはあまり強固に出て、日本が他国と通商条約を結ぶ動きにでてしまうのは避けたい事態でした。そのあたりの焦りは、阿部正弘も林復斎も把握しており、ペリーの要求を第一目標のレベルで押しとどめることに成功したのです。
アジア諸国の不平等条約より遥かに不平等性が少ない日米和親条約
結果として幕府は、アメリカと日米和親条約を結びます。後に不平等条約と呼ばれるようになった日米修好通商条約に比べると不平等性はなく、即時、下田を開港し、1年後に箱館を開港し、捕鯨船に補給し、物品の値段は日本側が決められるというものでした。
また、重要なのは日米修好通商条約でも堅持した部分で外交官以外の外国人の国内移動を制限したことです。日米和親条約では「下田においては7里以内、箱館は別途定める」としています。後の不平等条約でも行動制限事項をアメリカに飲ませることに成功しました。
※一里は3キロ、七里は21キロメートルになる
これにより国内で、外国商人が産地で物品を買いつけることが不可能となったのです。これは他のアジア諸国に比べ日本が粘り、交渉した結果であると評価される部分です。
※日米和親条約には最恵国待遇がアメリカだけに認められていたり片務性があり、対等条約ではない面もあります。
柔能く剛を制すを地で行った阿部正弘の柳腰外交
八方美人で優柔不断というのが、当時の阿部正弘の評価でした。確かにペリーに関しては情報を集めはしたものの、撃退はできず江戸湾の測量を許すなど、傍目には黒船はやりたい放題に見えたでしょう。
しかし、現実問題として黒船の武力は圧倒的であり、佐久間象山が提案したような江戸を火の海にしても徹底抗戦のような話は為政者としてできる物ではありません。阿部正弘は、攘夷派の急先鋒であった水戸の徳川斉昭から開国・開明派の薩摩藩の島津斉彬案で広い交流をもって、意見を聞きバランスの良い対応をして行った政治家ではないでしょうか。また、彼の人物を見る目が確かであったことも、その後の日本にとっては大きな利益になりました。
幕末ライター夜食の独り言
阿部正弘の外交政策は、一見優柔不断の八方美人でどこに向かうか分からないようなものでしたが、アメリカにとってはかなり強かな交渉相手にみえたようです。日本を「半未開国」と評していたアメリカも、阿部正弘、林復斎の交渉とその後の交流の中で、日本人に対する評価を変えていきます。日米交渉は、圧倒的な軍事力の差がある中で繰り広げられた外交交渉です。その中で粘り切った阿部正弘の外交はもっと高く評価されていいのではないでしょうか。
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